vol.16 ノーベル賞の発表で思い出した「光と野球のまち」

_コラム

柳本 元晴 Yanamoto Motoharu
フリー・スポーツ・ジャーナリスト
立教大学卒業/週刊ベースボール元編集長

広島県出身。1982年に(株)ベースボール・マガジン社に入社。週刊ベースボール編集部にて、プロ野球、アマチュア野球などを中心に編集記者を務める。91年に水泳専門誌(スイミング・マガジン)の編集長に就任。92年バルセロナ、96年アトランタ五輪を現地にて取材。98年、創刊されたワールド・サッカーマガジン誌の初代編集長を務めたのち、99年3月から約10年間にわたって週刊ベースボール編集長を務める。2014年1月に(株)ベースボール・マガジン社を退社。フリーとしての活動を始める。2012年からは東京六大学野球連盟の公式記録員を務めている。

22人目の日本人ノーベル賞受賞者


 10月7日夜のニュースは、青色発光ダイオード(LED)の研究、開発の功績で日本人3人がノーベル物理学賞に輝いたことで一色となった。
名城大学・赤崎勇教授、名古屋大学・天野浩教授、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の中村修二教授の3人だ。
 ノーベル賞を日本人が手にするのは2年ぶり。前回、iPS細胞の研究で京都大学の山中伸弥教授がノーベル医学・生理学賞を手にしたのは、まだまだ記憶に新しい。
 これで日本人のノーベル賞受賞者は22人となった。
 その偉大な功績の一つ一つは、すでにテレビや新聞などで十分説明されているだろうから、ここでは省かせてもらうが、今回の受賞のニュースを見て私は、かつて取材で訪れた徳島県阿南市のことを思い出した。

 徳島駅から電車で約50分、駅前に降り立つと「光のまち」と書かれたのぼりやポスターが並んでいた。改札口横のスペースには、阿南市の名産品と並んで、LEDが紹介され、LEDの発祥の地が阿南市であること、阿南市はこのLEDを前面に押し出した「光のまち」として全国にアピールしていくことなどが説明されていた。
 受賞者の一人である中村氏はかつて、日亜化学工業のサラリーマン研究者であったことは報道されている。退社したのち、開発したLEDの労働対価を求め、訴訟問題となったことは既に知られているところだが、その中村氏が当時、研究にいそしんだ日亜化学工業があるのが、この阿南市なのである。
 そのLED発祥の町である阿南市が「光のまち」と打ちだしたのには、そういう理由がある。
 とはいっても、週刊ベースボールの編集長だった当時の私が阿南市を訪れたのは、当たり前だが、そのLEDを取材するためではない。

水野投手らを輩出した野球どころ阿南市


野球のまち 阿南市は「光」と並んで、もう一つ、「野球のまち」として売り出そうとしていたのである。市役所には「野球のまち振興課」が設けられ、市内にある徳島県南部運動公園の一角には、07年に、甲子園球場と同じ広さを持つ新球場が建設された。その新球場「アグリあなんスタジアム」を中心地として、野球イベントの開催を全国に働き掛けた。
 甲子園球場と同規模の球場ということで、高校野球の強豪校が甲子園に向けての練習の舞台として同球場を使用することもあったと聞く。
 その他、独立リーグ、四国アイランドリーグの試合会場になったり、還暦野球など、生涯スポーツとしての野球をサポートする舞台ともなっている。
 野球の盛んな同市からは、かつてプロ野球で活躍した選手も輩出されている。
 著名な選手でいえば、元巨人の水野雄仁投手。水野投手は、阿南市に育ち、高校は池田に進んだ。高校野球での活躍、ドラフト1位で巨人に入団して以後の活躍は、改めて言うに及ばないだろう。
 さらにもう一人、巨人で投手として活躍した條辺投手もまた阿南氏の出身。條辺投手は地元の阿南工に進み、ドラフト5位で巨人入団した。2001年には桑田真澄以来という10代で開幕一軍入り。中継ぎ投手として長嶋茂雄監督は條辺を重用した。

 右肩を痛め、24歳の若さで球界を去ることになったが、その投球は今もファンの心に残っているはずだ。その後、埼玉県ふじみ野市に「讃岐うどん 條辺」をオープン。セカンドキャリアを成功させているのは、皆さんもご存じだろう。
 阿南市役所内の野球のまち振興課を訪問した当時、その壁には、水野さんの現役時代のユニフォームや記念ボールなどが飾られていた。HPなどを拝見すると、それらの展示物は、いろいろ増えているようだが、今はどんなになっているのだろうか。
 そういえば、街のあちらこちらでコバルトブルーの光が輝いていたなあ、と今さらながら思い出す。
「光と野球のまち」にまた行ってみたくなった。

バックナンバーはこちら >>

関連記事