あのヒーローは今 セカンドチャレンジ第一弾

あのヒーローは今 セカンド

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吉原は私がコーチをしていた07年に横浜ベイスターズに投手として入団してきた。社会人野球を経て入団した時には26歳。失礼だけれど、その投球ぶりよりも、私にとっては、いつも難しい顔をして試合や練習で投げていたような印象がある。よく、「何でいつも怒っているの?」と冗談半分で話しかけていたが、それだけ、真剣に野球に取り組んでいたのだと思う。それが、そのいつもの気難しそうな顔はなく、普通に笑顔を浮かべ、優しい表情を浮かべることが多くなっているのに驚いた。奥さんからも表情が硬いと注意されていたとこのインタビューで明かしたが、いい意味で、いい社会人の顔になったなあと思った。プロ野球の世界では、ヒジの故障もあって、満足のいく成績を残せなかったが、第2の人生ではたくさんの勝ち星を挙げることのできるサラリーマンになってほしいと願うばかりだ。

(アスリート街.com 中根 仁)
野球をやっているときは「落ち目の世代」と自虐

中根:顔、変わってきたね。吉原にはよく、あいさつ代わりに、冷やかし半分で「怒ってるの?」って、言っていたよね。

吉原:ハイ、いつも言われていました(笑)。

中根:むすっとしていたからなあ。

吉原:いえいえ、ポーカーフェイスというやつで(笑)。全然怒っていないんですけれど、みんなから、よく言われていました。まあ、よく言えば集中していた。戦いの顔になっていたんです(笑)。

中根:でも、その頃のことを思うと、今はもう営業の顔になっているよね。いい笑顔しているわ。もう、アスリート、プレーヤーの顔ではないね。

吉原:悪い意味ですか。

中根:もちろん、いい意味でだよ(笑)。選手の時のようにぶすっとしていたら、今の仕事はダメだろう(笑)。

吉原:小さいころから父親に野球を教えられて、その父親からずっと「表情を変えるな」って言われていたんですよ。結構熱血タイプで。厳しいおやじだったんで。プレーしているうちは、表情を変えると相手に弱みを見せることだ、くらいのイメージを持っていたんでしょうね。


現役時代の吉原道臣氏

中根:ずっと野球をやってきたの。

吉原:中学校の時はバレーボールもやっていて、高校から誘ってもらってもいたんです。だから、その時に野球をとるかバレーをとるか、どっちを選ぶか、ということもあったんです。そこで野球をやると決めて、誘ってもらった日大豊山高に進みました。

中根:甲子園は出たんだっけ?

吉原:僕は出ていないです。1つ下の代が出ました。桑原義行(元横浜)が3年の時です。

中根:そうか、クワ(桑原)が後輩だったんか。一つ下には、他にはどんな選手がいたんだ。

吉原:日大に行くと、那須野(巧=元横浜ほか)がいて。その桑原と那須野が一つ下。上には村田さん(修一=巨人)とか。ただ、僕らの世代はほとんどプロに進んだ選手はいなくて、落ち目世代と言われています(笑)。東京六大学では同期が鳥谷(敬=阪神)、青木(宣親=MLBジャイアンツ)ということになるんですけれど、東都はいなかったですね。

中根:じゃあ、大学時代はあまり出番なかったんじゃないか。

吉原:そうですね。大学2年の時に、ヒジを手術したこともあって、ほとんど出番はなかったですよ。ホンダに就職が決まっていたんで、練習だけはやっていましたけれど。

中根:それで、よくホンダに行けたな(笑)。プロ野球は考えていたんか。

吉原:いや、ないです。野球が続けられれば、それでいいと思っていたんです。ところが、ホンダに入った時に、監督から「プロを目指す人間しか、ここにはいないから」と言われて。お前も、野球をやるからにはプロを目指せと言われて、持ち直したというか。励ましてもらえたし。意識は変わりました。

中根:社会人に進んで、ホンダの監督に言われてすぐに、プロを目指そう、プロに行けるか、という気持ちになれたんか。

吉原:監督に言われたからといって、すぐにプロに行けるなんて、思えないですよ。全然です。ホンダに3年いて、やっとプロに指名されるかもしれないという話が出て。ドラフト当日は、ちょうど日本選手権の試合中だったんです。その試合でも投げて、終わってから、プロのドラフトにかかったと聞いた。

中根:その時の気持ちは。

吉原:うれしかったですね。

中根:プロ入るときにはどういう目標を立てたんだ。

吉原:ストレートで押せる投手になりたい、と言ったと思います。

中根:社会人からの入団だから、即戦力として期待されていたんだろうと思うけれど、申し訳ないが、正直、あまり記憶がない。

吉原:1年目、開幕一軍に残ったんです。ただ、初登板が連続四球で、二軍に落とされました。2年目にやっと投げさせてもらいました。

中根:最初はコントロールで苦しんだんか。

吉原:そうですね。

中根:どれくらいのスピードだった。

吉原:151kmでしたかね。

中根:2年目一時、いい時あったよな。連続イニング無失点とか。そのあと、続かなかったのはなぜ?

吉原:体のメンテナンス、ですね。怠ったかな、と。余裕がなくて、心身ともに“いっぱいいっぱい”だった。ケアがちゃんとできていなかった。今思うと、プレーをやっている中でも、トレーニングをしていかないとダメだったと思うんですけれど、体が続かなかったというか……。

中根:一軍ではリリーフばかりだったよな。

吉原:そうですね。でも1回、いや2試合か、先発させてもらったことがあるんですよ。

中根:どうだった?

吉原:初先発の時は、3回途中まで6対3で勝っていて。でも、雨天コールドで中止。(笑)

中根:えーー(笑)。なにしてんだよ〜。

吉原:持ってないんです(笑)。

中根:その時、勝てたかもしれんのにな。通算成績は勝ってないじゃない。あー、もったいない、初勝利だったかもしれんのに。そういうチャンスもあったのに、最後はひじを痛めたんだな。

吉原:二軍で先発用の調整をしろと言われて、投げた時にヒジにピリッと痛みが。それまで違和感もなにもなかったんで、本当に球でしたね。ヒジが外れたような感じでした。

中根:それで、手術したんだ。

吉原:そうですね。手術して、そのままオフに入って。次の3年目もリハビリで。4年目、ほとんど投げていないし。

中根:まだ痛みがあったから?

吉原:いや、そうではなくて、痛みはもう、なかったんですけれど、コーチから見たら、やはり球が来ていなかったという判断だったんじゃないですかね。

中根:吉原、本来のボールが行っていなかったということだな。その辺は、やはりプロはシビアだから。チャンスももらえなかったんだ。それで、“クビ”か。その時の気持ちはどうだった。まだ4年だし、もっとやりたかったというのもあっただろう。

吉原:それは、もちろんありました。ただ、最後の年は、気持ちもやられているというか、頭の中では、もう終わりかなという気持ちも、正直言うと、ありました。覚悟もしていましたね。

トライアウトで区切りの好投。セカンドキャリアへ踏み出す

中根:トライアウトは。

吉原:受けました。トライアウトのときが、一番出来が良かったですね(笑)。三振もとったし、ヒットも打たれなかったし。でも声はかからなかった。トライアウトって、他球団の方は、どこを見ているんだろうなと言う気持ちになりました。

中根:まあ、球団それぞれの事情とかあるからね。それに、トライアウトだけを見ているわけでは当然ないし。ただ、選手にしてみればなぁ、折角いい内容だったのに、声をかけてもらえなかったとすると、悔しいな。

吉原:そうですね。トライアウトは2回あるじゃないですか。1回目の時は、ちょっとやってやろうという気持ちがあったんですけれど、そこで、内容はよかったのに、全然声をかけてもらえなかったので、2回目は、区切りと言うか、けじめと言うか、プロのマウンドで投げるのはこれで最後、という感じで行きましたね。

中根:結婚はしていたんだよな。家族にはどういう風に言ったんだ。

吉原:まあ、ダメかもしれないというのは言っていましたし、嫁(由起子さん)の方の覚悟はできていたと思います。トライアウトが終わるまでは野球をやらせてもらって、その先は、辞めてから考えよう、と。当時は、子供は小さかったんで、分かっていないと思います。今やっと、昔、野球選手だったんだよと言うのがわかってきたと思います。現役のころの写真とか家に置いてあるし。

中根:子供は何歳。

吉原:2番目の息子が、今度4月から、小学校に上がります。

中根:野球を辞めて、仕事を探さないといけないとなって、最初は?

吉原:製薬会社ですね。

中根:製薬会社に行った経緯は。

吉原:ホンダから、自分と一緒にプロ(北海道日本ハム)に進んだ金子というのがいまして、1年早く辞めて、その金子が、その製薬会社に入っていて、相談がてら話をしたら、面接を受けさせてもらえるということになって、入れてもらいました。

中根:製薬会社の営業か。お医者さんのところにいって、薬の説明をして、購入してもらえるように、という感じだね…。でも、大変だったろう。薬のことなんて、ほとんど知識なんてなかったよな。

吉原:覚えるだけで大変でしたね。だから逆に、いい関係を作るために、頭を下げて「教えてください」と。すると、「何だ、こんなことも知らんのか」と言いながらも、教えてくれて、そんなことで、仕事以外でも仲良くしていただいたお医者さんもいます。

中根:その製薬会社は何年つとめたの。

吉原:2年ですね。

中根:せっかく入った製薬会社を何でやめたの。

吉原:一言で言えばリストラです。リストラの対象になってしまって。それでまた職探し。職業安定所にも行きました。そこで、介護の仕事を立ち上げようという話を知り合いからもらって、職安で無料で介護の研修をやるという話があって、そこに通いました。ただ、「介護」の資格が変わったんです。そうなると続けるのが難しいということに。それでまた職探し。ネットでいろいろ見ていたら、今回のオフィス24が募集しているのを見つけて、エントリーしました。去年の8月に登録して応募。縁あって、入れていただけることになり、勤務は10月からです。

中根:(同席していただいている上司の)金子さんの前で言うのも変ですけれど、オフィス24はいろいろ手広く仕事をされているようだし、吉原は何の会社かわかって応募したのか。

吉原:いや、全然分からなくて(笑)。

金子:おっしゃる通り、可成り手広く事業をやらせていただいています。外部の方からだと、ぱっと見、よくわからないというのが、正直な感想だと思います。

中根:ざっくり言うと、ITですよね。食品なんかも絡んでいるんですか。

金子:食品を扱うということはないですけれど、飲食店の経営、運営ということはやっています。


(左)中根 (中)吉原道臣 (右)金子氏

中根:何でここを選んだの?

吉原:そうですね。正直に言うと、まず条件面。家族がいるんで、収入面が一番大きくて、それと通勤のこと。転勤がほとんどないというのもあります。製薬会社の時に転勤続きだったんで。2年の間、大阪行って、群馬に行って、子どもにも負担かけちゃったんで、転勤がないところというのも大きかったです。今、埼玉県の上尾に住んでいるんですけれど、新宿まで通っています。

中根:ざっくり言うと、お店に、営業に行って、こういうサービスができますよ。こういうシステムができますよという話をして、契約をもらってくる仕事という解釈でいいんですか。

span style=”color: #ff8a00; font-size:18px;”>金子:私たちの部署は、そうですね。いろいろな会社、組織の集合体という部分もあるので、手広くいろいろな仕事をやっています。特徴は、独自のサービス、弊社だけのオンリーワンのサービスもあって、それが売り。お問い合わせとかも、最近は結構いただけるようになってきました。そういうネットでの営業と新規での開拓と言うか、そういう部分で動き回っているということですね。

中根:今、力を入れているのは、どんなことですか。

span style=”color: #ff8a00; font-size:18px;”>金子:弊社は飲食店・サロン店・小売店など、さまざまな業態向けのシステムを開発しておりますが、吉原も僕も、基本は飲食店向けのものをやっています。飲食店だと高単価の店から数百円の定食を提供していただけるお店まで、いろいろ分かれるものです。一応、弊社はどの業態でも、それぞれご提供できるサービスがあります。例えば、高単価のお店であれば、まず予約して、行く流れがあります。必ずお電話で予約される。そこで弊社のシステムをご利用いただいた場合、ご予約のお電話がありましたら、その時点でお客さんの情報が、ポンとポップアップされて、過去に、いつごろ来店してもらっているとか、前回はどんな料理を食べていただいたとか、アレルギー・好き・嫌い食材が何かなど、そういう情報がすぐに上がってくるんです。そういうものがお客様へのサービスやおもてなしの向上につながると思っています。そういった予約管理、顧客管理、会計管理を交お?水準でご提供できる、それが弊社の管理システムだと思っていますし、引いては契約していただいているお店の高度なサービスにつながると思っています。

中根:そういう部分の営業を吉原もやっているわけだ。もう全部一人で行っているの?

吉原:はい。行くのは一人で。それで商談の時には、今度上司と一緒に参りますので、と。

中根:それが、一人でできるようになって一人前と言うことだな。

span style=”color: #ff8a00; font-size:18px;”>金子:まだ、入社して日が浅いですから、現状では一人ではまだ無理ということですね。

中根:そういう営業を続ける上で、吉原が努力してきたことと言うのはなんですか。

吉原:仕事を覚えるというのはもちろんなんですけれど、さきほど中根さんが言われたとおりなんですが、野球やっているときから、嫁にも表情が硬いと言われていたんです。前の製薬会社の営業の時にも。まず、そこからでしたね。

中根:笑顔を自然に出せるように鏡を見たりとか?

吉原:はい、やりました(笑)。

中根:すごいな(笑)。

吉原:まだまだです(笑)。

中根:いや、野球をやっているときと比べると、すごい変わりようだよ(笑)。

吉原:今も、そうですね。意識して笑顔にするとか、もうあまりなくなってきて、自然になっているかなと自分では思いますけれど(笑)

中根:上司からご覧になって、どうですか。

span style=”color: #ff8a00; font-size:18px;”>金子:修行中ですね(笑)。ただ、入社時と比べれば、だいぶ良くなったというか、変わってきましたよね。

中根:でも、正直大変だよ。奥さんはいま、なんて言っている?

吉原:野球辞めてから、変わったね。と言ってくれます。周りからは「優しくなった」と言われることが多いです。

中根:実際、半年にも満たないわけですが、今の仕事にどんな風に思っていますか。

吉原:正直、難しいですけれど、野球を辞めた時から、仕事そのものをすることが全部初めてなんで、何をやっても、全部吸収して、自分のものにできるようでなければならないというのは思っていました。そのうえで、営業職になって、まさに表情一つとっても、今までの自分を変えるというチャレンジだったと思いますし、それを今、やりがいというか、手ごたえのようなものを感じられるようになりました。会社の中でまだまだいたらないことも多いと思うし、まだまだ半人前ということも自覚しています。例えば、先ほどの商談の話でも、早いうちに、一人で任せられるようになりたい、頑張りたいと思っています。

中根:今の仕事を一生の仕事としてやっていきたいということですね。

吉原:もちろんです。転職はもう、自分でもしんどいです。今はこの仕事を自分のものにしなければ、他で何をやってもダメだという覚悟で頑張っていきたいと思います。

span style=”color: #ff8a00; font-size:18px;”>金子:飲むと陽気になって、いろいろ話してくれる。「飲んで営業したら」と冗談でよく言っているんです。普段がニセモノの吉原で、飲んでいるときの吉原がホンモノなんじゃないかと。

吉原:いえいえ、違いますよ(笑)。

中根:上司からご覧になって、吉原は有望ですか。

span style=”color: #ff8a00; font-size:18px;”>金子:本当に、“お酒スイッチ”が入った状態が普段でも、普通に出せれば、絶対に行けると確信しています。

中根:野球をやっているときから、引退した後どうするかとか、考えていたことはありましたか。先輩とか見ていて、参考にしたとか。

吉原:セカンドキャリアに関してですか、正直言うと、全くなかったです。僕くらいの選手と言うか、二軍選手は、野球がどれだけできるか、そこを考えていることだけで精いっぱいというのが正直なところ。そんなこと考えている暇があったら、野球のことを考えろ、練習しろという感じじゃないですか。

中根:やめてから、考えた。

吉原:そうですね。辞めることが決まってからですね。

中根:後輩へ、アドバイスとかある。こうやればよかったとか、こうやればいいよ、というようなことあれば、ここで話してもらったら。例えば、もっと時間をかけてじっくり考えてから動いた方がいいとか。

吉原:自分の場合、家族がありました。だから、家族の生活を考えたときに、すぐ就職して、働かなければいけないという思いはありました。金銭面とかに余裕があって、野球のほかにやってみたかったこととかがあれば、その夢を追いかけるというか、じっくり考える時間があってもいいのかもしれないですけれど、自分は、一日でも早く、安定した仕事を選ぶということが一番大事なことだったですね。職種は全然気にしていませんでした。意識の持ち方としては、もう何をやってもゼロからのスタートなんで、後退せずに進むしかない、気持ちの持ちよう一つでやる気も出てくるということもある。引退して沈んでしまったり、何をしようかと悩んだりするくらいなら、とりあえず、何かをはじめよう。新しいことにチャレンジしようという気持ちでしたし、そういう考え方の方が、先が楽しくなってくるんじゃないか、そう思いました。実はNPBにも相談にはいきましたが、一つ提案された職種は、家族のいる僕にとっては、条件的に厳しかった。もっと、いろいろな業種、職種が選べるような環境なってくれれば、ありがたいとは思います。

中根:相談窓口、ここに(アスリート街.com)あるのになあ(笑)。吉原が辞めた時はまだ立ち上げていなかったな(笑)。今日の、吉原の話を聞いて、頑張っていることがわかって安心したよ。これからも、球界の先輩として後輩たちのいいモデルになれるよう、頑張ってください。今日はどうもありがとう。

プロフィール


吉原 道臣(よしはら みちおみ)
●出身地
東京都新宿区
●生年月日
1981年10月29日
開幕前に語った目標は早々と実現し、2007年の開幕第3戦の読売ジャイアンツ戦で5番手として登板。だが打者4人に対して四球4つというほろ苦いデビューとなった。すぐに二軍落ちしたが、二軍では先発とリリーフの両方で任され、3勝1セーブを挙げた。
2008年は6月の初登板の試合から11試合連続無失点を記録し、ハマスタの第二ヒーローインタビューで「僕が投げている間は0点に抑えて見せます」の心強い発言(インタビュアー:ケチャップ)もあった。ところが、夏場に入ると前半戦での酷使の影響による疲労からか打ちこまれるケースが多くなり、1軍定着までには至らなかった。同年に結婚。
2009年は故障もあって2軍では13試合に登板したが、一軍登板は無し。
2010年は二軍で11試合登板するも、二桁台の防御率を記録。10月1日に戦力外通告を受けた。

●投球・打席
右投右打
●ポジション
投手
●経歴
日本大学豊山高等学校/日本大学/ホンダ/横浜ベイスターズ

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