あのヒーローは今 第一弾

あのヒーローは今

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毎年、プロ野球に入ってくる新人選手の数だけ、当然ですが、ユニフォームを脱ぐ選手が出てきます。一つの球団で、主力選手として引退までプレーできる選手というのは、プロ野球界全体を見渡せば、実はそれほど多くはないのです。光山さんも、上宮高の大型捕手として、83年秋のドラフト4位に近鉄に入団されて以来、18年間に及ぶ日本球界のプロ野球選手生活のなかで、例えば、90年代に野茂英雄投手とのバッテリーで、名をはせたこともあります。さらには中日や巨人へのトレード。時に主力捕手として、時には、貴重な交代要員として、それぞれのチームにとっては、ベンチから外しがたい存在でした。晩年には、戦力外通告を受けられて、必死になって、プレーできる球団を探されたこともありました。それらの野球にかける執念や情熱は、並大抵のものではなかったと思います。だからこそ、ユニフォームを脱いだ後も、コーチとして声がかかり(11年―13年、西武)、人気解説者としてマイクの前で、深く面白い話を披露することができるのだと思います。
光山さんは、現役生活にピリオドを打たれた後、焼き鳥屋をスタートとして、6件の飲食店の店舗を構えていらっしゃいます。その意味では、我々「アスリート街.com」のテーマ、コンセプトであるセカンド・キャリアの成功を地で行っているプロ野球OBと言って、間違いないと思います。「アスリート街.com」のグランドオープンにあたり、光山さんに、今後の、セカンド・キャリアで成功を目指す方々へのメッセージや、ご自身の苦労話をお聞きました。
野球に限らず、多くの選手たちにとってのセカンド・キャリアへの指針や、参考になる話が聞けたと思っています。

(アスリート街.com 中根 仁)
引退後、目標が見つからず、生きている意味がないと思った

中根:飲食店を始められるきっかけですが、現役時代から、引退後は、こういったお店を出そうとか考えていらしたのでしょうか。

光山:飲食店は、正直あまり考えていなかった。野球選手が、ユニフォームを脱いだら、飲食店を始める人が多いと思っている方が多いと思う。でも、実は飲食店をやっている人が、みんながみんな成功しているわけではないし。むしろ、苦労しているという人のほうが多いような気がする。そんな印象があったんで、飲食店をやることについては積極的ではなかった。だからと言って、何か目標があったわけではない。やることもなく、ぶらぶらしていた時に、知り合いの方にお店に連れていかれた。聞くと、店長をやっていた人間が、事情は知らないけれど、勝手に辞めたらしい。「どうせ、ぶらぶらしているんだったら、この店、やってみんか」と言われた。それで、「じゃあ、やってみます」ということになった。


御肉」は長堀橋駅徒歩2分の肉料理屋


ビーフステーキ

中根:どこに縁があるかわからんですね。出会い、タイミングですね。でも、いざやるとなったら、結構こだわったと聞いています。店もいろいろ手を加えたんですか。

光山:変えたよ。例えば、外から店内が見えへんかったから窓を取り付けて店内を見えるようにしたり。カウンター周りにレンガを置いたり、炭台を大きいのに変えたり、椅子、箸、箸置き…。焼き鳥が好きだったからこそ、自分のこだわりがあって、いろいろ、変えた。鶏肉にもこだわった。秋田にも行ったし、名古屋にも行った。鹿児島にも。比内鶏がいいか、名古屋コーチンがいいか、薩摩若鶏がいいか、とね。結局、一番近いところの河内鴨になったんだけれど。

中根:そうやって、自分のキャリアを作り上げていくというか、やってやるという気持ちになったのはいつですか。

光山:キャリアを積み上げていくというような、考えはなかった。とにかく、恰好なんて気にする必要もない。このままだったら、生きている意味がないやないか、と。自分でホンマに、そう思っていた。

次の目標は、考えて、考え抜いて、自分で見つけ出すほかはない

中根:今のコメントは、光山さんが必死でやってこられたからこそ、成功したという、証明のような気がします。さらに、その1店舗だけでも成功させるが難しいところがあると思うんですけれど、光山さんは、さらに店を出されて、結果を残しておられる。その成功を見て、今の選手たちが、話を聞かせてくださいと、言ってきたら、どうしますか。勉強させてください、教えてくださいと、言ってきたら。

光山:自分から、「勉強に来いよ」とは言わんけれど、話を聞かせてくれという人は、たまにはおるよ。ただ、どうやったら、成功するんですか、と聞かれても、それぞれの職種、場所、様々な条件で当然変わってくるわけで、同じことをやったら、みんなが成功するというもんでもないやん。ただ、一つだけ思うのは、今、現役の選手たちが、野球にかけている情熱みたいなもんがあるだろう。朝から晩まで、野球のことを考えて、夢にまで出てきて、それほど情熱をかけられるものはそうそうない。今、野球にそれだけの情熱をかけていられるということを幸せに思わんとな。野球を辞めた後、それと同じくらいに情熱を傾けられるものが見つかれば、絶対成功すると思う。そう思えるものはなかなか見つからないけどね。だから、やめたはいいが、何していいかわからずに、右往左往するんや。偉そうに言っているけれど、自分自身がそうだった。


(左)中根 (右)光山英和氏

中根:それはプロ選手だけではなく、アマチュア選手だって同じこと言えますね。高校野球、大学野球でやめて、次の段階で、新しい、例えば野球とは全く関係のない仕事に就くこともある。すべては、そこでの踏ん切りでしょうね。

光山:言うのは簡単やけど、実際、なかなか気が付かへんと思う。自分が、本当は何をやりたいのか、考えて、考えて、考えて、考え抜いて、見つけ出すほかはない。だって、考えてみたら、わかるやん。子供のころから野球選手になりたいという夢を持って、曲がりなりにもそれを実現させて、プロで、結果が出せなかったとしても、じゃあ、次、と言われて、「これ、やります」というような仕事、簡単に見つかるはず、ない。自分の置かれている現状を認識したうえで、じゃあ、次何をするか、考えて考え抜いて、ちょっとずつでも、新しい夢に近づいていけるように、日々やっていくほかはないんと違うかな。

中根:それがセカンド・キャリアで成功していく秘訣という感じですね。

光山:オレの場合、大それた気持ちはなかったよ。ただ、ちゃんとしたい、という気持ちだけはあった。例えば、人に名刺を渡すこともできない。スケジュール表を見ても、1か月に1つか2つ仕事が入っているだけで、それを心の頼りにして生きているというのは、なりたくなかった。もう、ヒマが怖かったんだよ。今、よう言われるんだけれど、なんでそんなに急いで、何個も店をやるんですか、と。それは、辞めたばかりの時、何をしていいかわからず、ただただヒマだった時があるから。その時のような思いをしたくないねん。

中根:切羽詰まった思いがあったからこそ、頑張ってこられるというのもありますよね。

光山:今の現役選手たちに言いたいのは、野球選手にとって、野球をやっていることが一番幸せだということ。それは、小さいころからの夢を実現させたわけで、その夢に勝るものは、たぶん、その後の人生ではない。だからこそ、その夢を終わらせる、というか、終わらさざるを得ないような状況になったら、今度は、夢ではなく、新しい目標を作っていくしかない。それがセカンド・キャリアを積み上げる、築くということだと思う。それは、小さい頃から持ち続けた夢とは異なって、必ずしも、自分がやりたいことではないかもしれない。やりたくないことでも、生活のため、家族のため、やらなければならないことがある。それをどう認識し、自分の中で消化し、最後は外に向けてアピールできるか、成功するかどうかのカギは、すべて、そこにあるんじゃないか。オレは、そう思うよ。

プロフィール

光山 英和(みつやま ひでかず)
●プロ入り
1983年 ドラフト4位
大阪市生野区出身の元プロ野球選手(捕手)
上宮高校在学中の1983年、第55回選抜大会に出場。
同年秋ドラフトで近鉄バファローズ4位指名。
[現役時代] 1989年日本シリーズでは第2戦2打数2安打1本塁打を放ち活躍。
1990年 野茂英雄とバッテリーを組むなど正捕手の座を獲得。
打撃面でも2桁本塁打を記録。
1997年中日ドラゴンズへ移籍。
1999年5月16日巨人へ移籍。
2000年千葉ロッテマリーンズ入団。
2001年メキシカンリーグ参加。
2002年横浜ベイスターズへ移籍。
2003年 韓国のロッテ・ジャイアンツ入団。
[現役引退後] 2004年GAORAで放送「なまら!北海道日本ハムファイターズ中継」
2009年よりGAORAプロ野球中継、北海道のSTVラジオの解説者、NOMOベースボールクラブのコーチ。ボーイズリーグ オール松原の監督。
2007年北京オリンピック野球日本代表スタッフとしてアジア予選・同本戦に帯同。
2009年道新スポーツの評論家。
2011年埼玉西武ライオンズの一軍バッテリーコーチ。
2012年から作戦コーチを兼任した。
2014年からはGAORAとSTVラジオの野球解説者として活動する。

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