あのヒーローは今 第五弾

あのヒーローは今

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岡本さんとは、現役時代に対戦し、打った覚えがない。中日時代、常に上位で優勝争いを繰り広げていたチームにあって、中継ぎで「勝利の方程式」の一員として、速球とタテに落ちるスライダーを武器に、04、06年の二度の優勝に貢献されている。和田一浩選手がFA移籍で中日入り。その人的補償で西武に移った08年にも、西武の優勝に貢献している。今だから言える話ではあるけれど、横浜時代の私は、岡本投手相手の代打に指名されていながら、とても打てそうにないから、コーチに言って、代打起用を断ったことがある。お恥ずかしい話だが、それほど難敵だったということだ。
その岡本さんは、10年間の現役生活を終えたあと、最後のユニフォームを着た楽天の本拠地・仙台でうどん・もつ鍋の店を開いた。プロ野球関係者、ファンの方で店はにぎわっている。今さらながら、ファンの存在に感謝しているという岡本さん、セカンドキャリアの難しさとともに、一つの在り方を示してくれているという気がした。

(アスリート街.com 中根 仁)
人との出会いを大切に、それがあったからこそ10年間現役を続けられた

中根:現役を終える時は、どういう感情だったですか。

岡本:僕は、社会人野球を経験してからの入団だったので、プロ入りが27歳だったんですよ。入団の時には、ある先輩から「お前いくつだ?」と聞かれ「27歳です」と答えると「じゃあ10年(プロ野球生活)は厳しいな」と言われました。いきなりです(笑)。でも、そのときは、ショックというよりも、逆に『絶対に10年間は現役を続けよう』と強く思いました。発奮材料になったというか、先輩から言われた一言が結果的には良かったんだと思います。でも、「10年」にこだわりすぎたせいか、韓国球団を経て、楽天に呼んでいただき、10年目を迎えたときに『やっと10年を迎えられたな』とホッとしてしまったんです。そんな感情になった時に、自分の胸の中では、「もう現役は終わりだな」と決心がついていました。

中根:すごい球、投げていましたよね。僕は、岡本さんから同じ球3球で3球三振してしまった時、こんなスライダー見たことないよと思って、それ以来、対戦するのが嫌だった。実は代打に行けと言われて断ったことがある。絶対打てない、と。

岡本:覚えています。中根さんが出てくるのかと思ったら、他の選手が指名されて、球場全体が、「えー」って感じで(笑)。

中根:そうそう(笑)。突然、代わって出たバッターは準備もちゃんとできていないわけで、悪いことしたなあ、と思っている。でも、いいボール放っていたよね。真っすぐもよかったけれど、なんてったって、あのスライダーな。

岡本:僕、真っすぐはファールをとる感覚で投げていたんですけれど、最近そういう投手少ないですよね、真っすぐでファール打たせて、カウントをとって、そこで決め球と、そういうピッチングしていました。

中根:当時の横浜の四番だったボビー・ローズも、すごいって言っていたよ。

岡本:でも、そのスライダーを投げたのは、3、4年ですよ。10勝した年(05年)以降、ダダダっと崩れた。10勝した年も、夏前、7月か8月には10勝していたんですよ。新聞の投手成績の勝率トップ。そんなことで喜んでいたら、その後、すぐ背筋を痛めた。04年が防御率2・03で一番よかった。最優秀中継ぎ投手のタイトルもいただきました。でも、最後の広島戦でボコボコに打たれるまで、防御率は1点台だったんです。その前に優勝が決まったもんで、ビールかけではしゃぎすぎて、広島戦の時は筋肉痛(笑)。それで全然力が入らなくて、打たれました(笑)。

中根:でも、27歳というと、確かに遅いよね。すぐ、一軍に出られたんですか。

岡本:1年目は3試合、それもシーズン終盤です。2年目は反対に春先に7試合。でもいい投球ができなくてゴールデンウイークのころに二軍に落ちて、それ以来一軍には声がかかりませんでした。「もう、クビやな」とも思いました。でも、何とか残してもらって、3年目、突然、球が速くなったんですよ。初めて150kmが出た。入団当初は141〜142kmだった僕がですよ。キャンプで並んで投げていた山本昌さんから、「岡本、いいボール投げているな」と声をかけてもらったこともあります。そんなときに大塚晶則さんが入団されたんで、大塚さんのまねをして投げていたら、スライダーがスコーンと落ちるようになったんです。大塚さんに握りを見せてもらうと、僕の握りとほぼ同じ。それから、大塚さんにコツを教えてもらって。それからですね、自信もついたし、プロ野球でやっていけるかなと思ったのは。大塚さんのおかげです。いろいろな人との出会いは大切にしないといけないなと、今さらながら思います。

中根:それで10年か。やりきったという感じですか。で、それがなぜ、もつ鍋のお店をやることになったんですか。

岡本:球界に残って何か仕事をしたいという気持ちは、正直に言うとありました。でも、引退を決めた時に、コーチの話や裏方さんの話も、どこからも来なかったんです。もう40歳近かったし、サラリーマンをこれからやるのもどうかな、と思っていましたし、もともと料理が好きだったんで、そんなことができたらいいなと漠然と考えていたところに、知り合いの人から、「いい物件が空くよ。協力してやるから、やったらどうだ」と声をかけてもらい、決断しました。

中根:仙台の知り合いが?

岡本:はい。僕は、自主トレをやるときに、ホテルではなくコンドミニアムを借りて、ほぼ自炊でやっていたんです。料理するのは全然苦じゃないんです。でも、片づけるのは苦手でしたけれど(笑)。

中根:それはオレと一緒だ(笑)。オレも料理するのは好き。でも片づけるのは苦手。

岡本:面倒くさいですしね。あと、地方にもいろいろ行って、そこでおいしいものも結構食べているじゃないですか。だから、もつ鍋とかしゃぶしゃぶとかをメインにして、おいしいものをお店で出せたらな、と思って始めました。

中根:もつ鍋に決めようと思ったのは、なんで。

岡本:それは単純に、もつ鍋が好きだったから。それと、豚しゃぶも好きだったんで、それもやってみようということでやっています。

中根:自主トレの時から、もつ鍋とかやっていたの。

岡本:もつ鍋はやっていないですね。でもいろいろな鍋をやっていました。

中根:自主トレは何人くらいでやっていたの。

岡本:いつも3人だったですね。平井正史と清水将海。清水は料理がうまくないんですが、平井は漁師の息子だけあって、魚を普通に下ろせますからね。ナメロウとか作って、ご飯にかけて食べたり。知り合いから肉の塊から10キロくらい送られてきて、どうするんだよ。焼いて食べても、あまる。どうしようと、次はハンバーグ。A5ランクの肉を,叩いて、ハンバーグにして、食べた。

中根:すげえ(笑)。最高級のハンバーグだ。 

岡本:そんな感じで料理していました。僕の実家、日本海側なんで、カニが送られてくるんですよ。それをちゃちゃっとさばいて、しゃぶしゃぶにして食べたりしていました。

中根:すごい豪勢な食事だなあ。

岡本:はい、だから自主トレやっていても、やせないです(笑)。

ファンの方は現役を辞めた今でも応援を続けてくれている

中根:じゃあ、改めて料理学校言って習ったとか、そういうのはないの。

岡本:行っていないですね。2週間だけ、知り合いの名古屋のお店で働いて、そこの社長が、できるようになったんだから、あともう自分で考えてアレンジしたら、もういいよと。本当はもう少し見習いで働かせてもらうつもりだったんですけれど、

中根:実際に店をやってみて、現役時代と比べて、どこが一番変わった、と思いますか。

岡本:お客さんあっての商売なんで、すごく言葉使いに気を付けるようになりました。野球の世界は上下関係も厳しく、先輩に対しての接し方などは気を付けていましたが、お店を始めて、お客様に対しての接し方、話し方など、特に気を使うようになりましたね。野球やっているとき、特に一軍でバンバン投げているときは、お山の大将でしょ。敬語なんて、使わない。自分より年下の方に敬語を使うことはほとんどありませんでしたが、今は年齢など関係なくお客様に対しての言葉使いなどは普段から気を付けています。

中根:初めてだから、やはり、いろいろわからないこととか、あるよね。

岡本:店がオープンして、初めの頃は本当に難しかったですね。食材を仕入れて、仕込んで量が合わなくて捨てる。という状況が続きました。自分がイメージしてこれくらいお客様が来るだろうと思っていた部分と大きなギャップがありました。お昼でも、これくらい来るだろうと見込んで準備していても、お客さんの注文が全然違っていたり。だから、せっかく準備していても、捨てる。その繰り返しでした。まあ、それは今でもあるんですけれど、そこのところロスが、少なくなりましたね。


本場関西から仕入れているこだわりのカレーうどん

中根:今もファンの方がお店に来られたりもするの?

岡本:西武が仙台に遠征に来ると、西武ファンの方は本当にたくさん来てくれています。ありがたいですね。交流戦の時には中日ファンの方も来てくれたし、本当に、店からあふれるくらいに入ってくれることもあります。店が閉まるまでいてくれるので、時々、そのまま一緒に飲むこともあります。

中根:昔のファンとの交流が、そういうところでありますね。

岡本:今まで、ファンの方と直接お話しする機会はなかなかなかったのですが、お店を始めてファンの方とお話しする機会が増えて。あらためて、こんなに応援してくださっていたんだな、とつくづく、ありがたく思います。「一緒に座って、いろいろ話が聞けるのが楽しくて来ているんだよ」みたいなことを言われることも。今さらながら、もっと現役時代から、ファンの方といろいろ話をしておけばよかったなあと思います。現役の時は、サイン頼まれても、忙しかったりすると、ごめんね、とサインしないで行ったりしたこともあった。

中根:すごくそれもわかります。現役時代はなかなかファンの交流する機会はないもんね

岡本:そうですね。試合後サインを求められたりしても、時間がなく断らざるを得ないことも多々ありましたが、今改めて申し訳なかったなと思います。今でも、応援してくれる。それはお店じゃなくて、どんなことをやっていても、応援してくれるファンはいるということだと思います。だから、これからは現役時代に、不義理したことを反省しながら、ファンの方に返していけたらと思う。

中根:そうだね。これからだよね。これから、返していければ。僕も今、この「アスリート街.com」を立ち上げて、ファンの方と交流する機会が増えて、つくづくそう思いますね。

岡本:今、少しでも恩返しがしたいと、店内に子供達を集めて、じゃんけん大会を行って現役時代に使っていたグローブにサインしてプレゼントをすることもあります。特に、子供たちにはプロ野球を目指すきっかけになってくれたらいいなと思います。これからやっていきますと言っているんで、また、何かのきっかけに、グローブをプレゼントにジャンケン大会なんか、やっていきます。

中根:なるほど。では、最後に現役選手にメッセージをお願いします。

岡本:さっきの質問でもお答えさせていただきましたが、僕は入団が27歳。そして、初めて150Kmを出したのは29歳、あの中根さんから、三振を取らせていただいたスライダーを覚えたのも29歳だったんですよ。今、現役の選手も『もうそろそろ引退かな』と考えてしまう時もあると思います。でも僕のような選手でも遅咲きで10年も続けられたんだから、最後まであきらめないでほしい。僕の座右の銘は、中学校の時の担任の先生に教えてもらった「夢に向かって生きろ」なんです。人それぞれ目標や、夢は違うと思うのですが、どんな小さな夢でも、叶うようにとにかくそこに向かって一生懸命頑張ってほしいなと思います。


(左)中根 (右)岡本真哉氏

プロフィール

岡本 真哉(おかもと しんや)
●出身地
京都府京丹後市
●生年月日
1974年10月21日
現役時代は中日ドラゴンズ、埼玉西武ライオンズ、LGツインズ(韓国)、東北楽天ゴールデンイーグルスに在籍した。
京都府立峰山高等学校出身で、田中敏昭と同期であった。卒業後は社会人野球の佐藤工務店に入社するが、その後チームの廃部・休部などが続き、社会人時代だけで5つものチームを転々とした後、ヤマハで活躍した。2000年のドラフト4位で中日ドラゴンズに入団。
入団後の2年間は目立たなかったが、3年目に先発として頭角を現す。30歳を目前にして球速150km/h近い速球を投げるようになり、高い奪三振率を記録した。

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