【緩急自在】vol.7「谷繁元信さんの高校時代」

飯島 智則 Iijima Tomonori
日刊スポーツ記者

1969年(昭44)横浜市生まれ。93年に日刊スポーツ新聞社に入社。96年から野球担当になり、98年は38年ぶりの日本一に輝いた横浜(現DeNA)を担当。00年には巨人担当としてONシリーズなども取材した。03年から2年間は大リーグ担当として松井秀喜選手に密着。05年からはNPB担当として球界再編騒動後の諸問題を取材した。11年から7年間、野球デスクとしての内勤を経て、17年末から再び現場取材を始めた。ネットで「イップスって何?」「引退後の世界」を連載。ベースボールマガジンでもコラム「魂の活字野球学」を連載している。

夜の11時頃だったでしょうか。取材相手の方とお酒を飲みに行って、すっかりいい気分になって帰宅の途についていました。最寄り駅から自宅まで歩いていると、中学生とおぼしき4、5人の集団に出会いました。

楽しそうに談笑しながら歩いています。スマートフォンを触りながら、どうもゲームについて話しているようです。皆が大きなカバンを持っていたので、夜遊びではなく学習塾の帰りでしょう。こんなに遅い時間まで勉強しているんですね。3年生ともなれば、この時期の定期テストによって志望校が変わってきます。きっとプレッシャーも大きいことでしょう。塾からの帰り道、友人と話しながら歩くことが唯一の気分転換になっているのかもしれません。

私も学生時代、勉強はあまり得意ではありませんでした。中学時代までは比較的いい成績を収めていましたが、高校での勉強はまったくついていけませんでした。特に英語には苦労しました。高校3年生の大学受験はすべて不合格で、浪人生活を送りました。このときは何と予備校の入学テストにも落ちるという衝撃も味わっています。1年後も受験しては落ちまくり、何とか2次募集に引っ掛かったというありさまでした。ちなみに直後に2次募集は廃止されていますが、もしかすると私のような出来の悪い生徒を合格させてしまったからかもしれません。

受験では、すべての生徒に素晴らしい結果が出るとは限りません。成績が足りず、志望校の変更を余儀なくされるケースもあるでしょう。第1志望の学校に不合格となってしまい、併願した第2志望、第3希望に通うこともあるでしょう。

オジサンが酔っぱらって帰ってくる時間まで、塾で勉強していた彼らはどんな春を迎えるのでしょうか。そんなことを考えて見ず知らずの中学生を見つめていたら、谷繁元信さんの言葉を思い出しました。紹介するまでもありませんが、ベイスターズや中日を優勝に導いた球史に残る名捕手です。

「受験に失敗して、第1志望ではない高校に通っている生徒も多いと思うんだ。そんな高校生が勇気付くような記事にしようよ」

日刊スポーツでは昨年、さまざまな元球児に高校時代を振り返ってもらう連載を掲載しました。そのとき、私は谷繁さんに取材を担当しました。彼は江の川高校(現・石見智翠館高校)で2年連続の甲子園に出場しています。3年夏の島根大会では5試合連続、大会7本塁打という記録も残しました。高校からドラフト1位で大洋(現DeAN)に入団していますから、誰もがうらやむ輝かしい高校時代といっていいでしょう。

しかし、彼は高校受験に失敗しています。野球で誘われた広島工業高校を受験するも不合格になり、行き場所を失いました。慌てて江の川高校の2次募集を受けて入学しています。

昔話とはいえ不名誉な思い出でしょう。谷繁さんは語りたくないかもしれない。そう思って取材を依頼する際に確認しました。受験に失敗したところから語ってもらいたい。私がそう切り出すと、谷繁さんは即答しました。

「いいよ。もちろん話すよ。今はね、強がりじゃなく、心の底から受験に失敗してよかったと思っているから。江の川に行ってよかったと思っている」

そして前述の言葉を続けました。受験に失敗し、志望校ではなかった高校に通い、前向きな生活を送れていない生徒がいるかもしれません。そんな生徒に、受験失敗からプロ野球への道が開けた自分の経験を知ってもらいたい。谷繁さんのメッセージを込めて12回の連載を書きました。

寮生活は厳しく、1年生の頃に仲間と逃げだそうとしました。ピッチャーとしては結果を残せず、キャッチャーにコンバートされました。先輩に殴られて顔に傷痕が残ってしまったこともありました。

2年夏に甲子園に出場しましたが、力を発揮できないままに初戦で敗れました。同じ2年生の投手に抑え込まれ、全国の壁を痛感しました。確実視されていたセンバツ大会に選ばれず、悔しい思いもしました。ただ、谷繁さんはキャプテンとして仲間と奮起して夏に臨みました。捕手として評価が高まり、ドラフト1位でプロの道を切り開きました。いろいろなエピソードを語ってくれました。

当時の恩師やチームメート、さらには谷繁さんのお父様にも取材しました。実家に伺って少年時代の野球道具や写真の数々を見せてもらっているとき、高校1年生だった谷繁さんが両親に送った手紙を発見しました。

「お父さん お母さんへ 家に帰りたい 元信より」

ご両親は、たった3行に込められた息子の思いを痛いほど感じたのでしょう。アルバムにはさみ、大切に保管してありました。

受験失敗から始まった高校生活を振り返り、谷繁さんはこんなことを言っていました。

「後で考えると、自分にとっていい方向、いい方向へ進んでいったんだよね。その時はきつかったけど、広島工に入っていたらキャッチャーをやっていたか分からない。野球を続けていたかも定かではない。自分で切り開く道もあるけど、突然のように目の前に現れる道もある。何のために現れたのか、その時は分からないけどね。その道が運命ということもある」

彼が進んだ道は、球史に残る名捕手へとつながっていました。プロ野球記録に残る3021試合出場、通算2108安打、229本塁打、1040打点という輝かしい成績を残しました。突然現れた予想外の道でしたが、胸を張って堂々と歩いたからこそ開けた未来ではないでしょうか。

この連載は10月20日から日刊スポーツのホームページ「ニッカンコム」で公開されています。毎日1本ずつ12日間に渡ってアップしていきます。興味があれば、ぜひご覧ください(https://www.nikkansports.com/baseball/column/kunikarakoko/

受験生には最後までがんばってほしいと思います。希望通りの結果が出るように願っています。でも、受験の成否だけが人生を決めるわけではありません。受験の先にある長い長い道を、一歩ずつ着実に歩んで行ってほしいと思います。谷繁さんのような輝かしい未来に続く道かもしれません。

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