vol.46 今日は何の日? 広島東洋カープが初めて日本一になった79年

_コラム

柳本 元晴 Yanamoto Motoharu
フリー・スポーツ・ジャーナリスト
立教大学卒業/週刊ベースボール元編集長

広島県出身。1982年に(株)ベースボール・マガジン社に入社。週刊ベースボール編集部にて、プロ野球、アマチュア野球などを中心に編集記者を務める。91年に水泳専門誌(スイミング・マガジン)の編集長に就任。92年バルセロナ、96年アトランタ五輪を現地にて取材。98年、創刊されたワールド・サッカーマガジン誌の初代編集長を務めたのち、99年3月から約10年間にわたって週刊ベースボール編集長を務める。2014年1月に(株)ベースボール・マガジン社を退社。フリーとしての活動を始める。2012年からは東京六大学野球連盟の公式記録員を務めている。

プロらしいと言えば、そう。それぞれが自分の“仕事”を主張した

 久しぶりに聞いた感じのする「飛び石連休」。文化の日が明けた11月4日は、1979年、広島東洋カープが初めて日本一に輝いた日だったと、「今日は何の日」的なニュースで、あちこちで伝えられていた。
野球ファンにとっては「カープの日本一」は「江夏の21球」とほぼイコール。日本シリーズで記録にも記憶にも残る“名場面”として、長く語り続けてこられた広島―近鉄の日本シリーズ第7戦、9回裏無死満塁の攻防があらためて紹介されていた。
今年は、その時の満塁のランナーの一人に、福山雅治さんと結婚して話題になった吹石一恵さんのお父さんである吹石徳一選手がいたという、エピソードまでついて、当時のことを知らない若い人にとっても、多少は接しやすい話題になったのではないかと思う。

週刊ベースボール編集部時代に、その当事者である江夏豊さんとも懇意にしていただき、さらに古葉竹識監督、水沼四郎捕手とも親しくさせていただき、いろいろ話を聞いた。
そのシーンを簡単になぞると、1点を追う9回裏、近鉄はヒットと四球で無死満塁のチャンスをつかむ。近鉄・西本幸雄監督はそれまで、大毎、阪急の監督として日本シリーズに何度も出場しているが、いずれも日本シリーズでは敗れ、一度も「日本一」になったことがないが、その西本監督に訪れた「日本一」のチャンス。江夏さんも言われていたが、近鉄のダグアウト内には逆転勝利、日本一を確信したのか笑顔さえ見られていた。
しかし、ここから江夏豊の神がかり的な投球が、そのクライマックスをさらに演出する。「対江夏」用に温存していた代打・佐々木恭介選手を三振に斬って取り、石渡茂選手のスクイズをカーブの握りのままで外し、三走の藤瀬史郎選手をアウトにし、さらには、そのスクイズを外したカーブで、三振に取り、広島が初の日本一を達成したのだ。
この攻防を、ノンフィクションライターの山際淳司さんが「スローカーブをもう一球」というスポーツドキュメントの本の中の一編として書に残し、さらにそれをNHKが当事者たちのコメント付きで改めて見直すドキュメント番組を制作したことで、この「江夏の21球」は、“珠玉の名作”として、名を残すことになったのである。
当時、大学生だった私は、クラブの遠征先のホテルのテレビで、このシーンを見た。そこでは、判官びいきもあったのだろうが、周囲は西本監督に勝たせてあげたいというムードが充満していて、一人だけ広島を応援していたという記憶がある。
週刊ベースボール編集長を務めていたころ、時代がちょうど、20世紀から21世紀に代わることもあって、20世紀の野球を見直す特集を1年にわたって組んだ。その中で、この「江夏の21球」も改めて見直してみたのである。
当事者となった方々にも、あらためて話を聞いた。それがプロというものかもしれないが、それぞれが「私が…」「オレが…」「僕が…」と、あの場面を演出、作り上げたのは自分の力であることを口にした。
江夏さんしかり、古葉さんしかり、水沼さんしかり…。

それぞれに、それぞれの役割があり、つまりはその言っていることに間違いはないのだが、誰がどうというのではなく、3人を中心としたチームの勝利、チームが生んだ名シーンだと思うのだ。
冷めた目で見れば、そもそも、それを劇的な名シーンにしてしまったのは、江夏さんの「自作自演」みたいなところはあるし、水沼さんの藤瀬選手の盗塁に対する送球がワンバウンドとなり、三塁への進塁を許すことになったのも、原因と言えば原因だ。江夏さんを代える気もないのに、ブルペンの北別府、池谷両投手にアップを指示した古葉監督も、江夏投手の心の動きをざわつかせている。
江夏投手がこの日投げたのは、9回の「21球」だけではない。当時の抑え投手は、2回、3回投げるのも普通にあって、江夏投手も7回2死から登板、全部で「42球」を投じていることもあまり語られていない。

それに比べて、がっかりさせられた今年のカープだった

 その強かったカープも今いずこ。リーグ優勝は91年以降なく、12球団で最も優勝から遠ざかったチームになってしまった。今年こそ、とシーズン前には優勝候補にも挙げられ、期待されたが、結果はご存知の通り。「誤審」がどうのこうのと言う前に、やるべきことがあっただろうと、今さらながら思う。
敗因を語ればきりがない。野手の方では軒並み打率を落としているので、個々人の不調は言わずもがなだが、それもこれも含めて、やはり、監督1年目の緒方孝市監督の采配、選手起用の拙さも、残念ながら理由の一つと言われても仕方がないだろう。
このコラムと並行して、実は開幕当初にはカープに関わる連載をスタートさせたのだが、それも早々とストップさせた。楽しみにしてくれていた方がいらっしゃれば、それについては謝るほかはないが、個人的には、緒方カープに可能性を感じなくなったから。見切りをつけたからというのが本音。75年の初優勝と今シーズンの動きをリンクさせて書くのが難しいと思ったのだ。

紙数も足らないので、それを一つ一つ検証することは出来ないが、優勝争いが佳境に入ったころ、前日の試合で活躍した選手数人を外し、左打者にこだわったラインナップを並べたことがあった。こんな無用なこだわりに、センスのなさを感じ、私は「ダメだ! こりゃ」と思ったのである。
選手の成長はもちろんだが、来年のカープ、緒方監督を含む、首脳陣の“成長”がないと、やはり優勝など、夢のまた夢、そんな気がしている。

 

 

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