vol.56 「オリンピック」の私的な思い出。誇りと後悔の中で。

_コラム

柳本 元晴 Yanamoto Motoharu
フリー・スポーツ・ジャーナリスト
立教大学卒業/週刊ベースボール元編集長

広島県出身。1982年に(株)ベースボール・マガジン社に入社。週刊ベースボール編集部にて、プロ野球、アマチュア野球などを中心に編集記者を務める。91年に水泳専門誌(スイミング・マガジン)の編集長に就任。92年バルセロナ、96年アトランタ五輪を現地にて取材。98年、創刊されたワールド・サッカーマガジン誌の初代編集長を務めたのち、99年3月から約10年間にわたって週刊ベースボール編集長を務める。2014年1月に(株)ベースボール・マガジン社を退社。フリーとしての活動を始める。2012年からは東京六大学野球連盟の公式記録員を務めている。

私だけ? 岩崎恭子選手に「メダル期待」の大胆予想

 リオ五輪が始まった。報道を見ていると、五輪施設の工事はまだ続いている箇所があるということで、普通に、こんなんで大丈夫なんだろうかと心配になる。
 私の知人で、ブラジルへの留学経験がある人がいるが、短い留学期間にもかかわらず、2度ほどピストルを突き付けられ、強盗に金品を奪われた経験があると言っていた。
 ヘタに反抗しようとすると、命の危険がついてくるので、おとなしくお金を出した方が得策ということだったらしい。
 リオでは、五輪パークからそれほど離れていない場所に、俗にいうスラム街、治安の悪い場所があると聞くと、余計に不安になるが、どうか無事に大会が終わってくれることを望むばかりだ。

 私も、五輪の取材経験は2度ある。当時、担当していた水泳専門誌の記者としての取材である。「初めてのオリンピック」は92年のバルセロナ大会。「生きてきた中で、一番幸せ」のフレーズが今も思い出される、岩崎恭子選手が200m平泳ぎで金メダルを獲得した。
 自慢話になるが、大会前に私は自分が編集長を務めていた水泳専門誌上で「岩崎恭子にメダルの可能性があり」と書いた。
 当時の岩崎はその前年の全国中学校選手権で出した2分31秒08がベストタイムで、春の五輪代表選考会でも先輩スイマーに敗れて2位での代表入りだった。おそらく、この岩崎にメダルの可能性があると思っていた記者は日本でも世界中を見てもだれ一人いなかったのではないか。しかし、まさか金メダルとは思っていなかったけれど…。

 決勝では、予選で出した2分27秒78のタイムをさらに1秒余り詰めて2分26秒65のタイムで見事に優勝を果たした。1年前のベストタイムから一気に4秒余りを縮めての快挙だった。
“まさか”は、日本の記者にとっても驚きであって、岩崎のことは当時、ほとんどの記者が十分な取材をしていなかった。その“証拠(?)”に、プレスルームで、日本の朝刊に間に合わそうと現地の記者が大慌てで原稿を執筆しているその傍らに置かれてあったのが、私が水泳専門誌に書いた岩崎選手を取材した記事。パーソナルデータなど、ゆっくり取材する時間がない記者の皆さんは、私の記事をコピーして、その基にしておられたのである。
 今なら、ネットで資料を集めることも可能だし、一つの記事をコピーしてとり合うというようなことは起きないとは思うが、24年前といえば、通信手段はFAXが中心だった。
 懐かしいというか、少しだけ誇らしい思い出でもある。

予想は当たったが、こんな当たり方はうれしくない

 2度目の五輪取材は、4年後のアトランタ五輪。同じく主に水泳の取材である。
 逆に、この時の後悔も“予想”にあった。渡米前に、某ラジオ局にお招きいただいて、競泳チームの五輪での展望を話す機会を与えられた。
 その時の競泳チームは、日本選手権で当時の世界ランキング1位を含む、上位のタイムで”五輪切符”を手にした選手が目白押しで、アトランタでのメダルラッシュが大いに期待されていたのだ。
 もちろん私も、誌上では、「メダルを期待」と書いたのだが、その放送の中では、頭の片隅に宿っていた不安を口にした。その不安とは、「千葉すず」のことだった。

 当時の日本チーム、特に女子の中心選手といえば、ほとんどが高校生。チームのリーダー格となっていたのが千葉選手だった。千葉選手は、実績は十分だったが、一方で、進路を巡って所属クラブともめたり、精神的なムラが多い選手だった。うまく行かなかったときに、その不満がそのまま態度に出る。千葉選手が他の後輩女子選手に与える影響が大きいと思ったのだ。
 その千葉選手が出場する200m自由形が初日に予定されており、その結果次第では他の選手へ波及し、将棋倒しがごとく、悪い結果に終わることも考えておかないといけない、と話したのだ。

 結果はご存知の通り。千葉選手は予選落ちし、日本競泳チームは惨敗。メダルラッシュどころか、メダル獲得は「0」だったのである。そう、つまり悪い予想が当たってしまった。
 専門誌の記者としての分析は、自分でも驚くほど的確だったと思うが、それはそれで非常に残念な気持ちに陥ってしまったことが、思い出として残っている。
 リオ五輪。予想は止めておくが、メダルの数ではなく、あとでいい大会だったなあと、思い出が残るような大会になればいいと願っている。

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