【緩急自在】vol.4「稼頭央選手の引退」

飯島 智則 Iijima Tomonori
日刊スポーツ記者

1969年(昭44)横浜市生まれ。93年に日刊スポーツ新聞社に入社。96年から野球担当になり、98年は38年ぶりの日本一に輝いた横浜(現DeNA)を担当。00年には巨人担当としてONシリーズなども取材した。03年から2年間は大リーグ担当として松井秀喜選手に密着。05年からはNPB担当として球界再編騒動後の諸問題を取材した。11年から7年間、野球デスクとしての内勤を経て、17年末から再び現場取材を始めた。ネットで「イップスって何?」「引退後の世界」を連載。ベースボールマガジンでもコラム「魂の活字野球学」を連載している。


西武松井稼頭央選手(42)が、今季限りでの現役引退を表明しました。9月27日、メットライフドームに隣接する球団施設で会見を開き、自らの思いを口にしました。

「毎年、毎年、次の1年と思ってやってきました。あらためて振り返ると、当然、悔しさ、悔いはあるが、今思うといい野球人生だったと思います。決して1人でやれた野球人生とも思いません。周りの方のサポートがあり、ファンの皆さんの声援を聞きながらやった25年間でした。感謝しかありません」

また1人、多くのファンに愛された名選手がユニホームを脱ぎます。さびしい思いも強いですが、心から「お疲れさまでした」と言いたいです。

私と稼頭央選手との接点は決して深くありませんが、鮮明な記憶として残っています。今から14年前の2004年(平成16年)、稼頭央選手がメッツの一員としてデビューした試合を取材しました。そう、初試合、初打席の初球をバックスクリーンへたたきこんだ、あの打席を目の前で見ました。アトランタのターナーフィールドに響く歓声は、今でも耳に残っています。

私は同じ松井でも秀喜選手の担当でした。しかし、稼頭央担当だった先輩記者が別件で多忙だったため、フロリダでのキャンプ中からピンチヒッターとして密着取材をしていました。キャンプ中の取材で覚えているのは、とにかく帰宅が早いことでした。練習が終わってクラブハウスに戻ると、ほんの数分…いや数秒という日もある早さで車に乗り込んで球場を後にします。シャワーも、体のケアも、個人的に行うトレーニングも、すべて自宅で行うという方針でした。

秀喜選手の取材に慣れている私には衝撃的でした。ゴジラ松井は練習後も球場内に残ってトレーニングをして、体のケアをして、ジェットバスでゆっくりと体を休める習慣がありました。練習が昼に終わっても球場を出るのは夜ということもありました。彼が残っている限り、私たち取材陣も帰るわけにいきません。帰りがけに追加取材をするからです。球場の廊下で3時間も4時間も「いつ帰るだろうか?」と思いながら待ち続ける日々でした。

ですから、リトル松井の速攻帰宅は非常に新鮮でした。今だから打ち明けますが、取材後にゴルフ場でラウンドしてから原稿を書くという優雅な生活を送っていました。スコアは一向によくなりませんでしたが、フロリダの青々とした芝生を歩く時間でリフレッシュできました。両松井選手とも、我々の質問には非常に丁寧に答えてくれるので取材も順調に進みます。公私ともに心地よく、記者生活で最高のキャンプ取材だったと断言できます。

ただ、稼頭央選手はオープン戦で結果が残せずに苦しんでいました。なかなか安打が出ず、オープン戦の通算打率は1割9分2厘と低迷しました。地元メディアからは実力を不安視する声も出ていました。正直、私もシーズン序盤は苦しむと予想していました。慣れれば実力を発揮できるのは間違いないが、それまでアート・ハウ監督が我慢して起用し続けてくれるだろうか。そんなことを考えて迎えたデビュー戦でした。

稼頭央選手は「1番ショート」で、敵地のためメッツは先行でした。プレーボールがコールされた午後7時36分は、まだ球場内ものんびりしていました。最終的には4万9460人もの観客が入りましたが、まだ空席も目立っていました。そんな雰囲気の中、ブレーブスのオルティス投手も、何げなく初球を投じてしまったのかもしれません。

真ん中から内角へカット気味に入った高めの球を完璧にとらえました。打球はバックスクリーンへ飛び込むホームランになりました。稼頭央選手は「初球から振ってやる」と考えていたそうです。1番打者は相手投手の状態をつかんでチーム全体に伝えるため、多くの球数を投げさせる役割があるとも言われます。しかし、稼頭央選手は「見送っているだけで投手の状態は分からない。自分自身のタイミングも同じで、振っていかなければ分からないんだよ」と話していました。

またオープン戦で苦しんでいる頃、同じく不調だったヤンキースのロフトン選手のコメントに目がとまったそうです。

「オレはオープン戦のために契約したわけじゃない」

この言葉で「そうだ」と思い「まあシーズンを見ていてよ」という気持ちになれたと話してくれました。悩みながらもプラスに転じて前へ進む力がある選手だと感じました。名選手は皆さんそうですね。苦しみながらも前へ進む。彼らから学びたい姿勢だと思っています。

鮮烈デビューを果たした夜。私は先輩のカメラマンとアトランタ市内の和食店で食事をしていました。興奮冷めやらぬままに試合を振り返っていると、ドアが開いて稼頭央選手が入ってきました。他社の報道陣や観戦後のファンもたくさんいて、皆で拍手で迎えました。稼頭央選手は両手を挙げて歓声にこたえた後、大きく礼をしました。その姿が何とも格好よく映りました。

直後もプエルトリコ開催の3連戦で12打数4安打3四球と7度の出塁が評価されて、シリーズMVPも獲得しました。私は稼頭央選手の活躍だけ取材して、担当の先輩記者に引き継ぎました。彼との接点はこれだけで、以来、取材する機会には恵まれませんでした。

再会は2014年でした。大魔神こと、佐々木主浩さんの殿堂入りパーティーに出席したときです。私が記帳していると、後ろから「久しぶりじゃないですか!」と背中をたたかれました。稼頭央選手でした。忘れられていても不思議ではない立場だけに、うれしく感じました。その場で数分間ですが、10年ぶりの会話を交わしました。

私から離れていった彼の背中をしばらく追っていると、当然ながら多くの人にあいさつされています。そのたびに立ち止まり、笑顔で言葉を交わしていました。自らあいさつにも回っていました。10年前、ほんの3カ月ばかり取材しただけの私にも、丁寧に応対してくれるのです。誰に対しても同じように接しているのでしょう。あらためて彼の人柄に触れた気がしました。グラウンドでの闘争心あふれるプレーと、ユニホームを脱いだ時のさわやかな笑顔、そして裏表のない立ち居振る舞い。稼頭央選手が長い間、多くのファンに愛されている理由がよく分かります。

今度は指導者として、彼のような選手を育ててほしいと思います。稼頭央選手はPL学園時代は投手でした。西武に入団して遊撃手に転向しますが、1年目の1994年はイースタン・リーグで実に24個もの失策を記録しています。彼も「もう毎日エラーしていたような印象ですよ」と話していましたが、数多くの失敗を糧にして一流選手になりました。

そんな経験も、指導者としてのプラスになるでしょう。これからも彼を応援していきたいと思います。

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