飯島 智則 Iijima Tomonori
日刊スポーツ記者
1969年(昭44)横浜市生まれ。93年に日刊スポーツ新聞社に入社。96年から野球担当になり、98年は38年ぶりの日本一に輝いた横浜(現DeNA)を担当。00年には巨人担当としてONシリーズなども取材した。03年から2年間は大リーグ担当として松井秀喜選手に密着。05年からはNPB担当として球界再編騒動後の諸問題を取材した。11年から7年間、野球デスクとしての内勤を経て、17年末から再び現場取材を始めた。ネットで「イップスって何?」「引退後の世界」を連載。ベースボールマガジンでもコラム「魂の活字野球学」を連載している。
エンゼルス大谷翔平選手(24)が、アメリカン・リーグの新人王を獲得しました。日本ハムで5年間プレーしているので厳密に言えば新人ではなく、過去には論争もありました。その点は後述しますが、大谷選手の場合は年齢も若いので違和感はありませんね。もし大学に進学していたらプロ2年目です。昨年のア・リーグ新人王は、新人最多の52本塁打を放ったヤンキースのアーロン・ジャッジ選手です。彼は25歳でしたから、大谷選手の方が年下です。
インパクトでは他を抜きん出ていたでしょう。新人王レースのライバルだったヤンキースのミゲル・アンドゥハー選手は打撃成績で打率、打点、本塁打の3部門とも大谷選手を上回っています。アンドゥハー選手が2割9分7厘、27本塁打、92打点に対し、大谷選手は2割8分5厘、22本塁打、61打点です。
しかし、大谷選手には投手として4勝2敗、防御率3・31の成績も付きます。本格的な二刀流で、何かにつけて「ベーブ・ルース以来の…」という言葉がついて回りました。ルースが大リーグ、いやアメリカの歴史的な大スターだと考えれば、大谷選手の活躍に心を躍らせたのは、私たち日本人だけではないでしょう。
ルース以来となる主な記録が、11月14日付の日刊スポーツに詳細が載っていましたので抜粋します。完全な手前みそですが、日刊スポーツは記録面が充実しています。
◆10本塁打&5盗塁&5先発登板は1918、19年ルース以来、史上2人目。
◆開幕戦に打者で先発した選手が10日以内に先発登板は1919年ルース以来99年ぶり。
◆15本塁打&4勝、15本塁打&3先発登板は1919年ルース以来99年ぶり3人目。
◆先発で勝利投手となった次の試合で打者として先発して本塁打は、1921年のルース以来。
◆1900年以降で開幕50試合までに4勝&6発は、1818、19年のルース以来。
◆50イニング登板&15本塁打は、1919年のルース以来99年ぶり2人目。
◆10本塁打&4勝は、1900年以降では1919年のルース以来2人目。
◆シーズン20本塁打&10登板以上は、1919年のルース以来。
たくさんありますね。ルースを抜きにしても、2桁本塁打&50奪三振以上はメジャー初です。3試合連続本塁打もありましたし、あらためて振り返っても素晴らしい活躍でした。
思えば、彼が日本ハムに入団したとき、私も二刀流は中途半端になってしまうと危ぶんでいました。どちらかに専念すべきという意見でした。当時、野球担当デスクだった私は、日本ハム担当の記者にそういう見解の記事を書くよう勧めたこともあります。しかし、担当記者の答えは「栗山監督がいつも、若者が挑戦しているんだから応援してやりたいと言っています。私もそう思います」というものでした。最近になって、私もそう思うようになりました。私のような意見を、結果で黙らせたというところでしょう。もはや拍手を送るしかありません。
先ほど、プロ経験による新人王の資格について論争があったと書きました。1995年の野茂英雄投手は27歳でした。2000年の佐々木主浩投手は32歳で、これはア・リーグ最年長の受賞者です。翌年のイチロー選手は28歳。それぞれ日本球界での実績もずばぬけていますから、新人と呼びにくいのは確かです。
ただ、大リーグは今後も規定を変更しないと思います。新人王は1947年に制定され、この年に黒人初の大リーガーとなったジャッキー・ロビンソン選手が受賞しています。ニグロリーグで活躍した後にドジャースに入団したため、このとき28歳でした。ちょうど40年後の1987年から、新人王は「ジャッキー・ロビンソン賞」という別名がつきました。
1950年に新人王を獲得したサム・ジェスロー投手の32歳でした。これが史上最年長です。佐々木投手と同じ年齢ですが、ジェスローの方が33日だけ誕生日が早かったため「年上」になりました。彼もニグロリーグで活躍した後にブレーブス入りしています。大リーグは過去の歴史を非常に大切にします。この賞には人種差別の壁を破る大きな経緯があります。他リーグでプレーした経験で資格を奪ったり、年齢制限を設けるなどはしないでしょう。その都度、投票権を持つ記者が節度ある判断をしていけばいいことです。
さて、大谷選手が大リーグで活躍したことで、もう一つたたえたいことがあります。日本ハム球団の姿勢です。大谷選手は花巻東高校を卒業する際も、大リーグでのプレーを希望していました。日本ハムが勇気を持ってドラフト会議で指名して翻意させました。このとき日本ハム球団は「大谷翔平君 夢への道しるべ ~日本スポーツにおける若年海外進出の考察~」というプレゼン資料を渡しています。一時期は球団ホームページで内容の一部が公開されていました。
要するに過去のデータなどを示し、直接メジャーに行くよりも日本球界で成長してから挑戦した方が大リーグで長く活躍できる可能性が高いと説明しています。野球だけでなく、他競技の海外挑戦にも言及していました。純粋に「大リーグで活躍したい」と夢を持つ18歳の少年に、夢をかなえるための道を示したわけです。交渉といえばマネーゲームというイメージのプロ野球界で、画期的な方法だったと思います。
今年こうして大リーグで活躍し、日米の野球ファンを大いに喜ばせてくれました。大谷選手の能力や努力はもちろんですが、加えて日本ハム球団の支えがあってのことだと、あらためて思い起こしました。
今年10月に右肘の靱帯(じんたい)再建手術を行ったため、投手としての復帰は2020年以降になりそうです。来季は打者専念になりますが、一体どんな活躍を見せてくれるのでしょうか。今から楽しみです。
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