石井琢朗さんの慟哭が、今も耳に残っています。2008年7月15日、ベイスターズの打撃投手だった石田文樹さんが直腸がんのため亡くなりました。41歳の若さでした。同18日、新横浜駅に近い斎場で葬儀、告別式が行われました。ベイスターズの選手は全員で喪章をつけたユニホーム姿で参列しました。
弔辞をささげるために立った石井さんですが、なかなか言葉が出てきませんでした。彼の号泣が静寂の斎場に響き渡り、多くの参列者の涙を誘いました。石井さんは年齢こそ違いますが、1989年(平元)に大洋ホエールズに同期入団しました。石田さんがドラフト5位、石井さんはドラフト外でした。内野手として名球会にも入った石井さんですが、入団時は投手でした。ともに練習に励んだ仲で、野手に転向した後は打撃投手として練習を手伝ってもらっていました。プライベートでも付き合う、大切な先輩でした。
しばらくして、石井さんは涙をこらえて弔辞をささげました。まさに言葉を絞り出すようでした。
「この2、3日はずっと泣きっ放しでした。練習でも試合でも石田さんの影がちらついてたまらない。ともに歩いてきたこの20年間を誇りに思います」
多くの選手が、人目もはばからず泣いていました。石田さんがどれだけ愛されていたか…あらためて痛感しました。
石田さんは取手二(茨城)のエースとして、1984年(昭59)に夏の甲子園で優勝しました。決勝戦では、桑田真澄さん、清原和博さんを擁するPL学園(大阪)を延長の末に破りました。早大に進むも中退し、日本石油(現JX―ENEOS)を経て88年ドラフトで大洋に指名されました。現役としては1勝に終わり、打撃投手として長年チームに貢献していました。
いつも穏やかな笑みを浮かべている、やさしい人でした。私もベイスターズの担当時代、よく話をさせてもらいました。練習の合間に、遠征先で何を食べたとかゴルフの話をしました。お互い太り気味だった体形を気にしており、ダイエットの話も弾みました。ナイター後に帰宅すると深夜です。我慢すべきなのに、つい食べ物に手を伸ばしてしまうという共通の悩みがありました。石田さんが考案した「ビールダイエット」という、つまみなしで満腹になるまでビールを飲み続ける方法に挑戦したこともあります。メチャクチャな方法ですね。まったく効果はなく、2人で大笑いした覚えがあります。
ベイスターズの親会社がマルハからTBSに移ったとき、いろいろあって私はTBSからきた球団幹部との関係がひどくこじれた時期がありました。私も若くて強気一辺倒でしたから、ほとんどケンカのような状態になったこともあります。球団内も混乱していますから、こうした関係には敏感になります。多くの球団関係者が私との接触を避けるようになりました。TBS幹部に、私と親しいと思われたくなかったのでしょう。仕方がありません。私も、迷惑をかけないよう人前では誰にも話しかけないなど気を付けていました。
しかし、石田さんはまったく変わらず接してくれた1人でした。いつも通りに「お前、またハゲたんじゃないか?」などと大声で話しかけてきました。「石田さん、私と親しげに話さない方がいいですよ」と言って事情を説明すると、「じゃあ2度と話さないよ。くびになったら大変だから」と笑って離れていくのに、翌日になると同じように話しかけてくれました。やはりゴルフなど雑談ばかりです。当時は球団経営がどうなるとか、体制が大きく変わるとか、そんな話ばかりでした。でも、石田さんと難しい話をした記憶はありません。うれしそうにバーディーを取ったシーンを再現したり、息子さんの野球の話などをしてくれました。
石田さんの告別式には、私も参列しました。こらえていた涙は、石井さんの弔辞で止まらなくなりました。棺が乗った車が、見えなくなるまで見送りました。強い雨が降り続いていました。あれから10年もの月日が流れました。
昨年のことです。日刊スポーツでは甲子園100回大会に向けて高校野球の連載を始めました。元球児の高校時代を振り返る連載で、会議ではいろいろな候補者が挙がりました。「取手二の吉田剛」という名前が出てとき、最初は意に介していませんでした。近鉄、阪神と関西の球団でプレーした選手なので、大阪の記者が担当すると考えていたからです。しかし、ハッと思いつきました。「これは石田さんを書くチャンスではないか」と。私は手を挙げました。面識もない吉田剛さんの連載を担当すると宣言しました。
吉田さんとは大阪・北新地にあるANAクラウンプラザのロビーで待ち合わせました。あいさつをして、吉田さんが経営するダイニングサロン「T2 KITASHINCHI」まで並んで歩きました。「わざわざ東京から来たのか?」と問われ、私は担当に至る理由を話しました。
「あくまで吉田さんの連載です。でも、石田さんのことも書きたいんです」
そういうと、吉田さんは静かに言いました。
「そうか。石田を知っているのか。あいつのこと、いっぱい書いてやってくれ」
恩師の木内幸男さんにも話を聞きました。取手二の暴れん坊軍団を軽妙な口調で振り返ってくださり、笑いたっぷりの取材でした。しかし、石田さんの話に及ぶと、木内さんの目にも涙が浮かびました。
「いい子だったもん。うん、石田はいい子だった」
チームメートだった方々にも、当時の話とともに、石田さんの思い出を聞きました。
昨年の11月から12月にかけて日刊スポーツ紙面に掲載した連載が、このほどインターネットで公開されました。12月27日から来年1月7日まで、毎日1回ずつ更新していきます。全12回、すべて無料で読めます。甲子園で暴れまくった取手二の活躍を、そして石田さんを、どうぞ思い出してください。
◆連載のURLは…
https://www.nikkansports.com/baseball/column/kunikarakoko/news/201812230000397.html
飯島 智則 Iijima Tomonori
日刊スポーツ記者
1969年(昭44)横浜市生まれ。93年に日刊スポーツ新聞社に入社。96年から野球担当になり、98年は38年ぶりの日本一に輝いた横浜(現DeNA)を担当。00年には巨人担当としてONシリーズなども取材した。03年から2年間は大リーグ担当として松井秀喜選手に密着。05年からはNPB担当として球界再編騒動後の諸問題を取材し、11年から7年間、野球デスクを務めた。現在ベースボールマガジンでコラム「魂の活字野球学」を連載している。共著に小学生向けの「松井秀喜 メジャーにかがやく55番」(旺文社)。18年12月には著書「イップスは治る!」(洋泉社)を出版。