【緩急自在】vol.19「長嶋茂雄さんと『孫子の兵法』」


 長嶋茂雄さんがお元気と知って安心しました。春季キャンプに向けた巨人のスタッフ会議が行われた1月18日、山口寿一オーナーが「自宅に戻っていると聞いています」と明かしました。

「年末だったと思います。何月何日だったかまでは分かりませんが、(昨年の)年内に自宅に戻ってリハビリ、トレーニングを中と聞いています」

長嶋さんは昨年7月に体調を崩して検査をしたところ胆石が見つかり、入院が長引いていました。

 長嶋さんとスタッフ会議というキーワードが結びつき、私は1つの出来事を思い出しました。自慢話になるので誰にも言わずに長年過ごしてきましたが、思い切って書いてみたいと思います。もう昔の話なので、ちょっとお付き合いください。

 私は巨人担当だった2001年、都内のホテルで行われたスタッフ会議を取材しました。といっても会議そのものを見られるわけではありません。ロビーに待機し、会議後に内容を取材します。私は記者会見を同僚に任せ、会議の出席者の1人を喫茶店に連れ出して会議の内容を聞きました。

 すると「監督が孫子の兵法を使って今年の目標を掲げた」と言います。おもしろいと感じ詳細を思い出してもらいました。

「道、天、地…といった5つの要素をメモも見ずに読み上げていたよ。『道』には『心を1つに』とあるらしく、それを元に『フロント、首脳陣、選手。球団が一帯となって連覇に挑もう』と言っていた」

その記憶だけで書くわけにはいかないので会社に戻って資料やインターネットで孫子の兵法を調べ、取材相手の方に電話かけ内容に間違いがないか確認をして記事にしました。同年1月23日の日刊スポーツで1面を飾りました。記事の一部を抜粋します。

長嶋監督が読み上げたのは、中国、春秋時代・呉の兵法家・孫子の兵法の根本となる5つの要素。兵法の総論ともいえるもので、以後13編で語られる思想の根本になるものとされている。
 『道』 とは、人民の心が上と1つとなって生死を共にする覚悟ができているかどうかという政治の状況。
 『天』 とは、陰陽、気温や季節などの自然に関する条件。
 『地』 とは、距離、地形の険しさ、広さ、高低などの地理的条件。
 『将』 とは、才知、誠実さ、仁、勇敢さ、威厳といった将軍の能力。
 『法』 とは、軍の編成、官職制度、軍の用法などの国家体制。

 1週間後に宮崎キャンプが始まりました。まだ現在のKIRISHIMAひむかスタジアムを中心に使っている時期でした。報道陣は三塁側ベンチ前で取材が許可されていましたが、一塁側ベンチには入れないルールでした。私が三塁側で練習を見ていると、長嶋監督が一塁ベンチ前で手招きをしています。まさか私を呼んでいるとは思わず、最初は反応しませんでした。すると監督付の小俣進広報が「飯島!」と私の名を呼んで、監督と一緒に手招きを始めました。私は慌てて一塁ベンチへと走りました。こういうとき、いい想像はしませんよね。記事内容にクレームをつけられるのではないか…と不安が募りました。しかし、長嶋監督は笑顔で迎えてくれました。

「スタッフ会議の記事を読んだぞ。おもしろかったじゃないか。あれ調べたのか? 会見では出ていない話だから、コーチかスタッフの誰かがもらしたんだろう。誰に聞いたかは言わないでいいぞ。記者だから取材して聞き出すのは当たり前だからな。事実だし、チームのマイナスになることでもない。話を聞いただけじゃなくて調べたところがいい。だって孫子の兵法のところは、オレが話した内容より詳しかったからな。おもしろかった。それが言いたくて呼んだんだ」

 監督は一気に話しました。当時の日刊スポーツは巨人担当記者が4人いて、私は年齢的には上から2番目という立場でした。最年長者が「キャップ」と呼ばれ、長嶋監督に付き切りになります。私は普段は主力選手を担当し、その先輩が休みの日だけ監督を取材する役目でした。ほとんど話す機会はあまりなかった長嶋監督に呼ばれ、しかも記事をほめられて舞い上がっていました。何と答えていいか分からず「監督、スポーツ新聞を読んでいるんですか?」とピント外れの返答をしてしまいました。

「読んでるぞ。全部読んでいる。だからオレの采配を批判していても、ちゃんと読んでいるからな。ヘヘヘヘヘ」

 ここで小俣広報が「監督、飯島はあの難しいキヨ(清原和博さん)に食らい付いていますよ」と、助け舟を出してくれました。

「そうか。自主トレも見た? 今年の清原はどうだ? いい? そうか。清原はいい表情をしている。けががなければ大丈夫だろう。怖いのはけがだけだ」

 ほんの5、6分間の会話だったでしょうか。わずかな時間だったとはいえ、私には忘れられない出来事です。「長嶋さんに記事をほめられた」。いい思い出です。いや、長々と自慢話をすみませんでした。

 さて、清原さんの名前が出たので、もう1つ私が好きな長嶋さんのエピソードを書きます。清原さんから聞いた話です。同年の7月17日の阪神戦(甲子園)で、長嶋監督は「5番清原」に送りバントのサインを出しました。この年の清原さんはキャリアハイの121打点を挙げるほど好調でしたが、新人だった86年以来となるプロ通算5個目の犠打を命じられました。

 よく覚えています。清原さんはサインを出した三塁コーチャーに歩み寄って確認しました。「本当かよ?」といった表情を浮かべていましたが、バントは一塁前にきっちり決めました。ただ、後続が抑えられて得点には結びつかず、チームは球団史上初の同一カード3戦連続サヨナラ負けを喫しました。ちなみに試合後の長嶋さんのコメントは「清原はよく決めた。見事だった。立派だった」。清原さんは「サイン出たからしただけや」と言うだけでした。ちょっと不満だったことは間違いありません。

 翌朝のことです。清原さんがホテルで寝ていると、部屋の電話が鳴ったそうです。出ると長嶋監督からで「キヨ、昨日のバントはよかったぞ。ナイスバント、ナイスバント」と言って切れたといいます。清原さんは言っていました。

「何かスカッとしたね。何だかんだと理屈っぽく言い訳されたら余計に複雑な思いになったかもしれない。それが、あの甲高い声で『ナイスバント、ナイスバント』だけだからな。やっぱり、この人には敵わないと思ったよ」

 私は2003年から松井秀喜さんの担当になりました。長嶋さんと松井さんは親密な師弟関係にありますので、自然と私もお会いする機会が多くなりました。2004年のアテネ五輪も取材メンバーに入っており、本来なら長嶋さんが五輪で指揮を執る姿を取材するはずでした。しかし、この年の3月、長嶋さんは脳梗塞に襲われたため断念せざるを得ませんでした。私は長嶋さんのいないアテネへ行き、ヘッドコーチの中畑清さんが指揮を執る「長嶋ジャパン」を取材しました。エーゲ海まで徒歩数分の位置にある選手ホテルで原稿を書きながら「ここに長嶋さんがいたらなあ…」と、何度も思ったものです。

 来年には東京五輪があります。ぜひ球場で侍ジャパンに「勝つ! 勝つ! 勝つ!」をやってほしいです。長嶋さん、お体を大切になさってください。

飯島 智則 Iijima Tomonori
日刊スポーツ記者

1969年(昭44)横浜市生まれ。93年に日刊スポーツ新聞社に入社。96年から野球担当になり、98年は38年ぶりの日本一に輝いた横浜(現DeNA)を担当。00年には巨人担当としてONシリーズなども取材した。03年から2年間は大リーグ担当として松井秀喜選手に密着。05年からはNPB担当として球界再編騒動後の諸問題を取材し、11年から7年間、野球デスクを務めた。現在ベースボールマガジンでコラム「魂の活字野球学」を連載している。共著に小学生向けの「松井秀喜 メジャーにかがやく55番」(旺文社)。18年12月には著書「イップスは治る!」(洋泉社)を出版。

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