【緩急自在】vol.22「有名人とファンの距離感」

 あれは銀座の焼き鳥店でした。1997年の年末だったと思います。プロ野球の元監督さんに連れて行ってもらい、名店の焼き鳥を堪能しました。その帰り、奥の座敷にいた私たちはカウンター席の後ろを通って出口に向かいました。

 そのときです。私は強いオーラを感じました。私たちに背を向けて食事をしている女性がいました。顔はまったく見えません。しかし、そのオーラで一般の方ではないと確信しました。私は失礼にならないよう、通り過ぎた後でさりげなく靴ひもを結び直す振りをして顔をチラリと見ました。

 女優の山口智子さんでした。大ヒットしたドラマ「ロングバケーション」が放送された翌年ですから、大人気を博していた頃です。大スターは顔を隠してもオーラは消せないものだと驚きました。

 ちょっと興奮して「サインが欲しいな」「握手してもらいたいな」と思ったのは事実です。私はすでに記者でしたが、芸能人にお会いする機会はほとんどありません。女優さんに会うなど大事件です。しかし、思いとどまりました。プライベートで食事を楽しんでいる場面です。もう1度振り返りたい気持ちも抑え、真っすぐ前を向いて店を出ました。

 サインをもらった経験もあります。大学生の頃、友人と都内某所を歩いていたところ、F1レーサー鈴木亜久里さんが自宅前で洗車している姿を見つけました。

 当時はいわゆるF1ブームです。しかも鈴木さんが鈴鹿サーキットで行われた日本グランプリで3位に入り、日本人初の表彰台に立った直後でした。私と友人は驚き、興奮しました。しばらく迷いましたが、千載一遇の機会と「お休みのところすみません。サインを頂けませんか?」と話しかけました。

 鈴木さんは「いいよ。手を洗ってくるからちょっと待ってて」と言って自宅に入り、タオルで手をふきながら再び出てきてくれました。私たちが渡したペンと紙にサラサラとサインをしてくれました。「飯島くんへ」と名前も入れてもらいました。

 「鈴鹿、テレビで見ていました。感動しました」。「来年も頑張ってください」。緊張しながら話しかけると、鈴木さんは「ありがとう。また頑張るよ」と笑顔でこたえてくれました。

 わずか5分ほどの時間でしたが、私たちには大きな事件でした。会う友人すべてにやりとりを語って自慢しました。

「鈴木亜久里、すごいいい人だった」「わざわざ手を洗いに行くなんてファンを大事にしている証拠だな。だから人気があるんだよ」「オレ、中嶋悟の方が好きだったけど、これからは亜久里ファンになる」。もらったサインは折り曲がらないようファイルに入れて飾っていました。今も実家にあるはずです。

 テレビや雑誌で見るだけのスターが目の前にいる。それだけで我を忘れてしまいます。そういう気持ちはよく分かります。

 有名人とファンの距離感は難しいものです。先日、中日松坂大輔投手(38)が、ファンに引っ張られた右腕を痛めてしまいました。キャンプ地の沖縄・北谷運動公園でブルペンからメイン球場への道のりで、ファンに囲まれた際のできごとでした。詳細は分かりませんが、ファンに悪気はなかったと想像できます。松坂投手が目の前にいて、その体に触れてみたいと手を伸ばしてしまっただけでしょう。

 ただ、アクシデントがあっては困ります。球場付近では選手が通る道はコーンで仕切るなど、対策を講じる必要があるでしょう。ファンと交流する場所は決めておく。流れでサインや写真撮影に応じてしまうと、ファンの方々もチャンスを得ようと必死になります。そんな競争が激化しないよう、どこかで一線を画す必要があると思います。

 中日ではドラフト1位ルーキーの根尾昴内野手(18)にも、あわやアクシデントという状況がありました。球場の2階から「サインをください」と、ボールとペンを投げられました。幸いけがには至りませんでしたが、もし当たったら大変です。これはファンの方にも反省してほしいですね。

 プロ野球選手にとってはファンサービスも仕事の一環といっていいでしょう。観客動員を促すだけではなく、野球という競技の普及にもつながります。

 大リーグの最後の4割打者、テッド・ウィリアムズはファンの歓声に一切こたえなかった選手として有名です。引退試合ですら手を振ることすらありませんでした。こうした行動もメディアから「神様はいちいち手紙に返事を書かないものだ」と評されていました。一流のプレーを見せることが最大のファンサービス。こうした考え方も私は大好きです。

 しかし、現代では通じないでしょう。芸能界でも、AKBに代表されるように「会いに行けるアイドル」が人気になる時代です。ダルビッシュ有投手、田中将大投手といった一流選手が、ツイッターなどのSNSでファンと交流を図っています。どこまで徹するかは個人差でしょうが、ファンは何らかの「返事」を期待している時代になったといっていいでしょう。

 相互交流だからこそ、もっと互いの気持ちを尊重してほしいですね。選手はファンの気持ちを考え、サインが無理なら手だけでも振ってほしいと思います。松井秀喜さんは移動などで忙しい日でも「ごめんね。今日は時間がなくてサインできないんだ。また球場に来てね」と、ひと声かけていました。サインを入手できない無念さはあっても、気持ちよく帰れるのではないでしょうか。

 ファンの皆様も、選手の都合を考えてあげてください。練習や移動で忙しい時間帯も、試合前で緊張している日もあります。ちょっとした配慮をしてもらえたら、選手も気持ちよくファンの前に出てこられるでしょう。そしてサインは大切にしてくださいね。好意が込められていますから、決して売買するものではありません。

 アクシデントなく、有名人とファンが気持ちよく交流できるよう願っています。私もまた女優さんに会いたいなあ…。

飯島 智則 Iijima Tomonori
日刊スポーツ記者

1969年(昭44)横浜市生まれ。93年に日刊スポーツ新聞社に入社。96年から野球担当になり、98年は38年ぶりの日本一に輝いた横浜(現DeNA)を担当。00年には巨人担当としてONシリーズなども取材した。03年から2年間は大リーグ担当として松井秀喜選手に密着。05年からはNPB担当として球界再編騒動後の諸問題を取材し、11年から7年間、野球デスクを務めた。現在ベースボールマガジンでコラム「魂の活字野球学」を連載している。共著に小学生向けの「松井秀喜 メジャーにかがやく55番」(旺文社)。18年12月には著書「イップスは治る!」(洋泉社)を出版。

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