多くの野球ファンにとって2025年は、忘れられない年になったことだろう。
若い世代の方々にとっては、ロサンゼルス・ドジャースがワールドシリーズ連覇を果たし、その戦力の中心に大谷翔平選手がいたことを記憶にとどめる年になったが、往年の野球ファンにとっては、「ミスター」との別れの年になった。
「ミスタープロ野球」と呼ばれた長嶋茂雄さんが6月3日、永眠された。
「我が巨人軍は永久に不滅です」との言葉を残しグラウンドを去った長嶋さんだが、その後も巨人の監督として、また国民的人気者として多くのファンに親しまれてきた。だが、ついに別れの時が来てしまった。
長嶋さんが亡くなられてから、これまで何度か長嶋さんについて書こうと思ったが、なかなか筆が動かなかった(パソコンを開けなかった)。
自分だけが良い子になるつもりなどないが、軽々に長嶋さんについて何かを言う気になれなかったのだ。
心にポカンと穴が開いてしまったような、またいろいろなことが去来して心が整理できないような、とにかく長嶋さんの「死」と向き合うことができなかったのだ。
立教大学から入団した長嶋さんがプロ野球にデビューしたのは、私が生まれた1958年(昭和33年)4月だった。
国鉄、金田正一投手から4打席4三振のデビュー。
結果だけを見れば最悪のスタートと言えるかもしれないが、たとえ追い込まれても三振を怖がらずに果敢にスイングを仕掛けていく積極性が、後に多くのファンを引き付ける長嶋茂雄の真骨頂だった。
空振りでもヘルメットを飛ばすほどのフルスイング、守ってもボールを投げた腕をひらひらさせるオーバーアクション。長嶋茂雄は、何をさせても絵になる男だった。
僕たちは、こうした長嶋さんの一挙手一投足を真似しながら育った世代なのだ。
少年野球では、いや草野球のおじさんたちも、長嶋さんの「背番号3」を付けたがり、「3番」を付けて三塁を守ることが、あの時代のトレンドでありステイタスでもあった。
小学校4年生で少年野球チームに入った私は、「3番」と王貞治選手の「1番」がすでに売れているなかで、二人を一緒に背負う「13番」を付けて悦に入っていた。
それからというもの私の野球(人生)は、つねに長嶋さんのイメージを追いかけながら歩んできたものだった。
受けた影響は、それこそ簡単に言葉にできない。
その影響力は、きっと父や母をも越えている。
ひと言でいえば、長嶋茂雄は私の教科書であり、テキストでもあったのだ。
その長嶋さんが亡くなった今、私自身の人生を客観的に見つめると、スポーツのヒーローがこれほどまでに影響を及ぼすのかと驚かされる。
私の中には、長嶋さんから学んだことがたくさんある。
いや、恐れながら私は長嶋茂雄的なものになろうとしていたのだ。
そして時代は流れ、イチローさんも松井秀喜さんも、こどもたちに同様の影響力を発揮し、いまこの時代のこどもたちは大谷翔平選手からさまざまなメッセージを受け取っていることだろう。
長嶋さんがいなくなって本当に寂しくなってしまった。
しかし、次を託された選手たちが続々と登場するスポーツは、素晴らしいものだと思う。
たかがスポーツ、されどスポーツ。
この素晴らしい循環が、これからもずっと続いていくことを願って止まない。それが長嶋さんからのメッセージでもあるのだ。
令和の断面
青島 健太 Aoshima Kenta
昭和33年4月7日生/新潟県新潟市出身
慶応大学野球部→東芝野球部→ヤクルトスワローズ入団(昭和60年)
同年5月11日の阪神戦にてプロ野球史上20人目となる公式戦初打席初ホームランを放つ。
5年間のプロ野球生活引退後、オーストラリアで日本語教師を経験。帰国後スポーツをする喜びやスポーツの素晴らしさを伝えるべくスポーツライタ―の道を歩む。
オリンピックではリレハンメル、アトランタ、長野、シドニー、ソルトレークシティー、アテネで、サッカーW杯ではアメリカ、フランス、日韓共催大会でキャスターを務める。
現在はあらゆるメディアを通して、スポーツの醍醐味を伝えている。
2022年7月の参議院議員選挙で初当選。