【令和の断面】vol.39「ボートレーサー今村豊は強くて美しかった」

令和の断面


「ボートレーサー今村豊は強くて美しかった」

 「水上の格闘技」と言えば水球を思い浮かべる人もいるだろうが、今回はボートレースである。
 10月8日、東京・BOAT RACE 六本木SIX WAKE HALLで今村豊選手(山口支部、165センチ、50キロ)が会見を開き、引退を表明した。
 レーサー生活39年5か月、「艇界のプリンス」と呼ばれた革命児も59歳になっていた。

 かつてボートレース中継(テレビ)の司会を10年近くさせてもらったが、トップレーサーの中でも今村選手は、特に印象に残っている人だ。

 まずもって、この世界で君臨するには強いことが絶対条件だ。
 1981年のデビュー戦で1着になってから積み重ねてきた勝利(1着)は2880回(歴代7位)。
 優勝回数142回(歴代3位)
 SG(最もグレードの高い大会)優勝回数7回(歴代11位タイ)
 通算の勝率は7.76(歴代2位)
 生涯獲得賞金は29億4144万6172円(歴代2位)

 デビューから2年11か月でのSG制覇(84年、笹川賞)は、今も史上最速のタイトル獲得である。ちなみに49歳2か月でもSG(2010年、モーターボート記念)を制している(歴代9位)。

 今村の革新性は、「全速ターン」に、いち早く取り組んだことだった。
 彼がデビューした80年代は、まだ誰も全速ターンをやっていなかった。各選手は1マーク、2マークで曲がる時には、スピードを落として回っていた。今村は本栖湖の訓練生時代から全速ターンに取り組み、試行錯誤の中でこれを自分のものにする。内側にいる選手のボートに接近して、そのままアウト側を全力で回って追い抜いていく、いわゆる「ツケマイ」は、強い今村の代名詞になった。

 その後ボートレース界は「モンキーターン」全盛になるが、早くから全速ターンに取り組んできた今村はモンキーターンの旗手として戦い続けた。

 ボートレースは出場6艇が横一線でスタートするので、インコースに有利がある。
 そんな中でも今村は「有利なところから勝っても嬉しくない」と、豪快な外からの「まくり」や「まくりざし」でファンの気持ちをつかんできた。舟券的にもつねに魅力的な選手だったのだ。

 しかし、今村がこれだけ長い間ファンに愛され続けてきたのは、ただ単に強かっただけではない。
 むしろ彼の人気は、その人柄にあったのだ。
 私も何度もお話を聞いているが、どんな時でも嫌な顔をすることはない。これだけの実績がある選手なのに、いつでも謙虚で腰が低い。後輩に偉そうにすることもなく、誰からも愛されていた。

 引退会見で今村が口にした言葉が胸に刺さった。

 「39年間で貫いたことは?」と聞かれた彼はこう言った。

 「人にぶつかっていかないという自分のレースは、最後まで崩したつもりはありません。勝つがために手段を選ばずにやってきたことはありません。それだけは貫き通せたかなと思います」

 熾烈なコース取りでボートが思わずぶつかってしまうことはある。しかし、相手を弾き飛ばすためにわざとぶつけるようなことはしなかった、と今村は言うのだ。

 それが今村豊の誇りであり、39年間大きなケガもなく戦い続けることができた理由なのだろう。

 強い選手は美しい。
 今村豊は、その美学を見事に体現した選手だった。

青島 健太 Aoshima Kenta

昭和33年4月7日生/新潟県新潟市出身
慶応大学野球部→東芝野球部→ヤクルトスワローズ入団(昭和60年)
同年5月11日の阪神戦にてプロ野球史上20人目となる公式戦初打席初ホームランを放つ。
5年間のプロ野球生活引退後、オーストラリアで日本語教師を経験。帰国後スポーツをする喜びやスポーツの素晴らしさを伝えるべくスポーツライタ―の道を歩む。
オリンピックではリレハンメル、アトランタ、長野、シドニー、ソルトレークシティー、アテナで、サッカーW杯ではアメリカ、フランス、日韓共催大会でキャスターを務める。
現在はあらゆるメディアを通して、スポーツの醍醐味を伝えている。

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