【令和の断面】vol.65「マー君、神の子、不思議な子」

令和の断面


「マー君、神の子、不思議な子」

 今シーズン、メジャーリーグ・ヤンキースから古巣の東北楽天に復帰した田中将大投手(32歳)が、4月24日の埼玉西武戦で初勝利をあげた。
 これが彼にとっては、日本プロ野球での100勝目。
 177試合目での達成は、1939年スタルヒン(巨人)の165試合に次いで史上2位タイ(48年藤本英雄も177試合)のスピード、戦後の2リーグ制になってからは、61年杉浦忠(南海)の188試合を抜いて、最速の記録となった。

 初登板となった4月17日の北海道日本ハム戦では、2本のホームランを喫し、5回75球3失点で負け投手になったが、この日の投球はその敗戦を生かして打たせて取る頭脳的なピッチングに変身してみせた。

 日本ハム戦では、直球勝負で2回までに3失点。
 早々とゲームの主導権を握られ、苦しいゲーム展開になってしまった。
 この日は、力勝負を避けて、初回から変化球で相手を幻惑した。
 スライダーにスプリットでカウントを稼ぐ。
 3回からは、直球やツーシーム、カットボールも織り交ぜて的を絞らせなかった。
 直球の最速は148キロにとどまったが、変化球との組み合わせでより速く見せる工夫が光った。
 6回68球、被安打3、奪三振4、失点1。
 チームが2対1で勝って、田中が通算100勝目をあげた。

 すべては6回68球という投球数が物語っている。
 変化球をストライクゾーンに投げ込んで相手に打ってもらう。
 決して力でねじ伏せるような投球をしない。
 厳しいコースで三振を取りにいく、力で相手を押さえ込む、そうした投球を意識すれば、コントロールは乱れ投球数は自ずと多くなってしまう。
 省エネ投球を狙ったわけではないだろうが、「ピッチングとは何か」を知っているピッチャーのクレバーさがよくわかる投球内容だった。
 
 メジャーリーグの主力投手ゆえに、相手打者もファンもメディアも豪快な力勝負を期待しがちだ。あるいは、メジャーリーガーのプライドがそうしたピッチングをさせるだろうと予想している。
 しかし、田中は初戦の日本ハム戦で直球を痛打されたことで、すぐさまそのスタイルを変えて、環境に順応するように変化球主体に配球を変えた。

 ピッチングとは、直球の球速ではなく、無意味な力勝負でもなく、自分のプライドが満足するボールを投げることでもない。

 求められるのは、相手を最少失点に抑えることだ。
 田中は誰よりも、そのことがよくわかっている。
 だからアメリカでも生き残れるスタイルを作り上げて、それを武器に戦い続けてきたのだ。
 つねに勝てる道を探す。
 その臨機応変なマウンドでのマネジメントが、この日は見事に表れていた。

 楽天時代の師匠、当時の野村克也監督が田中を評して言った。
 
 「マー君、神の子、不思議な子」
 
 田中が投げると負けない。
 完全な負けゲームでも打線が爆発して逆転してくれる。
 まるで運を味方にするように田中が投げるとラッキーなことが起こる。
 そんなマー君に親しみと敬意を込めて野村さんは言ったのだ。

 もちろん田中が誰よりも幸運を引き寄せる人なのかもしれないが、その本質と言うか、そういう流れを引き寄せる要因は、向き合う現実に臨機応変に対処する術を彼が若いころから持っているからだろう。

 その彼の信条が、この日のヒーローインタビューでも語られた。
 「ベストを尽くす。最後まで戦う。そういうことしか僕にはできない」
 それが「マー君、神の子、不思議な子」と呼ばれた神髄なのだ。

青島 健太 Aoshima Kenta

昭和33年4月7日生/新潟県新潟市出身
慶応大学野球部→東芝野球部→ヤクルトスワローズ入団(昭和60年)
同年5月11日の阪神戦にてプロ野球史上20人目となる公式戦初打席初ホームランを放つ。
5年間のプロ野球生活引退後、オーストラリアで日本語教師を経験。帰国後スポーツをする喜びやスポーツの素晴らしさを伝えるべくスポーツライタ―の道を歩む。
オリンピックではリレハンメル、アトランタ、長野、シドニー、ソルトレークシティー、アテナで、サッカーW杯ではアメリカ、フランス、日韓共催大会でキャスターを務める。
現在はあらゆるメディアを通して、スポーツの醍醐味を伝えている。

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