【令和の断面】vol.84「ロコソラーレが見せた根性」

令和の断面


「ロコソラーレが見せた根性」
 今どきあまり使わない言葉を聞いて、思わず彼女たちに引き付けられてしまった。
 北京五輪出場を目指すカーリング女子の日本代表決定戦でのことだ。

 20年日本選手権覇者のロコ・ソラーレと21年日本選手権王者の北海道銀行が3戦先勝方式(稚内みどりスポーツパーク)で9月10日、11日、12日に激突した。

 北海道銀行は10日の第1戦(7-6)を延長の末に制し、翌11日午前中に行われた第2戦(8-7)も勝って、2連勝で王手をかけた。
 連敗スタートとなったロコ・ソラーレは、もう負けられない。
 残された復活への道は、逆転の3連勝しかなかった。

 迎えた第3戦は、2時間ほどの休憩をはさんで、同日(11日)の午後に行われた。

 追い込まれたロコ・ソラーレ。
 2連勝で流れは、完全に北海道銀行にある。
 いくら平昌五輪で銅メダルを獲得しているロコ・ソラーレの面々といえども、経験があればあるほど、自分たちが置かれている状況の厳しさが分かるはずだ。
 正直に言って、ここからの逆転は難しいだろうと思っていた。

 ところが……。
 この劣勢からロコ・ソラーレが盛り返す。
 負ければ終わる第3戦で北海道銀行を圧倒(9-3)して、第4戦、5戦に望みをつないだのだ。
 この時、ロコ・ソラーレのスキップ・藤沢五月選手が勝利後のインタビューで言った。

 「最後まで楽しみたい。これがロコ・ソラーレだという根性を出したい」

 「根性???」

 それは久しぶりに聞く言葉だった。
 人から聞かないだけでなく、自分で話すこともなければ、原稿で書くこともない。
 その言葉は、ある意味ですごく新鮮に聞こえた。

 僕たちが子どもの頃は、「スポーツ=根性」と言ってもいいくらい頻繁にその言葉が使われていたと思う。誰もが違和感なくスポーツの場面で使っていた。いや、スポーツの場面だけでなく、日常においてもいろいろな場面で使われていたと思う。
 ・根性がある
 ・根性がない
 ・根性を出せ
 ・根性が大事
 ・根性で頑張れ

 本当によく使われた「根性」だが、どうしたことか、近頃は死語になってしまったかのように聞かれなくなってしまった。
 「根性」=昔ながらの精神主義
 そんなイメージが定着してしまったのかもしれない。古い精神主義が、理不尽や非科学的な練習を強いることが問題となり、時代の流れの中で、徐々に使われなくなってきたのだろう。

 ところがそんな「根性」を、今をときめく女性アスリートから聞く。
 そこに驚きと新鮮さがあったのだ。

 藤沢選手は、第4戦に勝った後も言った。
 「最後までロコ・ソラーレの根性をチーム全員でプレーしていきたいと思います」

 「根性」
 彼女たちは、どんな思いでその言葉を使っているのか?
 そのヒントをくれたのは、サード(副スキップ)の吉田知那美選手だった。

 「連敗したあとの休憩の中で、チーム全員(監督、チームスタッフを含む)でどうするべきか?という話をしたときに、『私たちは作戦のレパートリーも上回っていて、ショット率もすべて上回っていて、ラインも美しく滑っているのに、星(勝利)だけ取れない。最後に何がないのかって言ったら、私たちには運がない。なので運が味方してくれないんだったら、自分たちで運命を変えよう!と』だから今回は、相手は北海道銀行さんではなく、私たちの運命と戦った気持ちです。ロコ・ソラーレ、この1、2年間くらい格好つけていたなと思って、格好つかないんだからつけるのをやめよう。ロコ・ソラーレらしくやろう。そんな気持ちで戦いました」

 Q最後は、その「らしさ」を出せましたか?

 「はい。チョー格好悪かったです。チョーダサかったです。でも私たちはトップアスリートになんかならなくてよくて、私たちはロコ・ソラーレであればいいので。トップアスリートではなかったんですが、ロコ・ソラーレではあったなと思って、自分を誇りに思います」

 おそらくこれが彼女たちの「根性」なのだろう。

 結果は周知の通り、ロコ・ソラーレが2連敗からの3連勝で代表の座をつかんだ。

 最後に藤沢選手が言った。
 「私たちは(試合中に)よく笑うチームと言われるんですが、それだけじゃなくて喜怒哀楽を前面に出して、格好悪いうちらを前面に出そう!というのが氷の上でのパフォーマンスにつながった。これからもチーム全員で格好悪くがむしゃらにやりたいと思います」

 あなたは「根性」をどう思いますか?
 彼女たちの抱いた思いが、本当の根性なのか?
 あるいは、時代の流れの中で、根性というものが再定義されたのか?
 いずれにしても、彼女たちは「根性」で勝った。

青島 健太 Aoshima Kenta

昭和33年4月7日生/新潟県新潟市出身
慶応大学野球部→東芝野球部→ヤクルトスワローズ入団(昭和60年)
同年5月11日の阪神戦にてプロ野球史上20人目となる公式戦初打席初ホームランを放つ。
5年間のプロ野球生活引退後、オーストラリアで日本語教師を経験。帰国後スポーツをする喜びやスポーツの素晴らしさを伝えるべくスポーツライタ―の道を歩む。
オリンピックではリレハンメル、アトランタ、長野、シドニー、ソルトレークシティー、アテナで、サッカーW杯ではアメリカ、フランス、日韓共催大会でキャスターを務める。
現在はあらゆるメディアを通して、スポーツの醍醐味を伝えている。

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