【令和の断面】vol.105「平野歩夢選手が北京五輪を救った」

令和の断面


「平野歩夢選手が北京五輪を救った」

 小林陵侑選手(ジャンプ・ノーマルヒル)と高木美帆選手(スピードスケート1000m)の金メダル。
 鍵山優真選手(フィギュアスケート)、高木美帆選手(スピードスケート500mと1500m)、女子団体パシュート、小林陵侑選手(ジャンプ・ラージヒル)、カーリング女子(ロコ・ソラーレ)の銀メダル。
 宇野昌磨選手、坂本花織選手、団体(フィギュアスケート)、堀島行真選手(男子モーグル)、冨田せな選手(スノーボード女子ハーフパイプ)、村瀬心椛選手(スノーボード女子ビッグエア)、森重航選手(スピードスケート500m)、渡部暁斗選手(ノルディック複合ラージヒル)と団体の銅メダルなど、北京五輪を振り返ると選手たちの素晴らしい躍動(金メダル3個、銀メダル6個、銅メダル9個)が今も記憶に新しい。
 故障や失敗で涙を飲んだ選手もいるが、それも五輪であり、スポーツでもある。それでも日本代表として五輪出場を果たしたすべての選手が日本の誇りだ。コロナ禍での大会で、いろいろな不自由もあっただろうが、それを乗り越えた彼らの挑戦に改めて敬意を表したい。

 残念ながら取材者として北京に行くことはできなかったが、おかげでほとんどの競技をテレビで観戦した。
 前号で書いたジャンプ高梨沙羅選手の失格問題は、本当に憤慨したが、これは運が悪かったでは済まされない問題だ。引き続きFIS(国際スキー連盟)の対応を注視していきたいと思う。

 さて、ここまで読んできて「おい、ひとり大事な選手を忘れているぞ!」と突っ込んでいる方がいるはずだ。そう、北京五輪の締め括りには、やはりこの人を取り上げないわけにはいかないだろう。
 スノーボード男子ハーフパイプで金メダルを獲った平野歩夢選手である。

 ここでもジャッジ(採点)の問題があった。
 平野選手が無事に金メダルを獲ったからよかったものの、もし、平野選手が3回目に失敗していたら、ジャッジをめぐって大変な騒動になっていたことだろう。

 それは、見ていてまったく不可解だった。
 確かに最高得点を出したスコット・ジェームズ選手(オーストリア)の2回目の演技(92.50)は、素晴らしいものだった。ただ平野選手の演技は、スノーボード史上最高難度のルーティン(演技内容)であり、それを彼は完璧に決めた。

 平野選手の演技構成は以下の通りである。
 F-T1440 → C-D1440 → F-D1260 → B-D1260 → F-D1440
 (※これだけでは当方も何のことだか分からない笑)

 何と言っても見せ場は、冒頭のF-T1440 「トリプルコーク1440」だ。
 斜めの軸で3回転、横の軸で4回転、平野選手が去年12月、世界で初めて成功させた大技だ。
 ところがその採点(91.75)は、ジェームズ選手より低かったのだ。

 この時の平野選手(2回目)の採点を細かく見ると、他の審判に比べてアメリカとカナダの点数が低い。これについては、この大会を最後に引退を表明していたスノーボード界のスーパースター「ショーン・ホワイト選手(アメリカ)の試技がまだ残っていたからだ」と指摘する声がある。
 それ以外にも各選手が最高のルーティンを出してくる3回目に上積みできる点数を残しておいたという考え方もあるだろう。
 ただ、この演技を見ていて、「これは低すぎる」と率直に思った。
 五輪のために最高の技を磨いてきたのにそれが正当に評価されない。
 それでは選手が可愛そう過ぎる。

 平野選手は優勝インタビューで「怒りが自分の気持ちの中でうまく最後に表現できた」と冷静に語った。
 3回目も2回目とまったく同じルーティンで滑って、今度は(96.00)を出したのだ。
 もし彼が3回目に失敗していたら、銀メダルで終わっていた……。
 それを考えると一歩間違えば大変な悲劇が起こるところだった。

 犯人捜しのようなことをするつもりはない。
 口数の少ない平野選手が「ジャッジはどこを見ていたのかという説明を。選手は命を張っている」とその後の会見で語ったが、これは本当に大事なことだと思う。

 近年、フィギュアスケートは、「技術点」と「芸術点」に分けて客観的に採点するシステムを導入したが、スノーボードもこれをやるべきだろう。
 「スタイル(格好いい)」という価値観の中でジャッジの主観で採点できた時代は終わったのだと思う。各選手の技が大幅に進化した今、その難度をしっかり評価してあげないと、とんでもない誤審が起こるはずだ。平野選手の発言は、そうしたことへの警鐘でもあるのだ。

 平野選手の完璧な演技(3回目)が、大混乱を回避させた。
 いや、北京五輪を救ったと言ってあげたいほどの素晴らしい姿勢だった。

青島 健太 Aoshima Kenta
昭和33年4月7日生/新潟県新潟市出身
慶応大学野球部→東芝野球部→ヤクルトスワローズ入団(昭和60年)
同年5月11日の阪神戦にてプロ野球史上20人目となる公式戦初打席初ホームランを放つ。
5年間のプロ野球生活引退後、オーストラリアで日本語教師を経験。帰国後スポーツをする喜びやスポーツの素晴らしさを伝えるべくスポーツライタ―の道を歩む。
オリンピックではリレハンメル、アトランタ、長野、シドニー、ソルトレークシティー、アテナで、サッカーW杯ではアメリカ、フランス、日韓共催大会でキャスターを務める。
現在はあらゆるメディアを通して、スポーツの醍醐味を伝えている。
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