【令和の断面】vol.180「野球界最大の課題」

令和の断面

 我々が学生&社会人の頃は、五輪にプロ野球の選手は出場できなかった。
 五輪がアマチュアリズムを守っていたからだ。
 プロ野球の選手が初めて五輪に出場したのは、2000年のシドニー五輪からのこと。この時には、当時西武ライオンズにいた松坂大輔投手やオリックスブルーウェーブの田口壮選手などが出場したが、監督は東芝の太田垣耕造氏が務め、チームの大半はアマチュアの選手だった。

 このチーム編成には、野球界の暗い過去が横たわっていた。
 発端は昭和36年(1961)に起こった所謂「柳川事件」だった。
 中日ドラゴンズが日本生命の柳川福三外野手と社会人野球のシーズン中に契約し、入団を発表したのだ。
 これに怒った社会人野球協会は、プロ野球界との関係断絶を宣言し、プロ野球退団者の社会人野球への受け入れを拒否したのだ。

 同年、中日は大分県立高田高校の門岡信行選手と、夏の大会終了後、まだ退部届けを出していない段階で同選手と接触したことから、日本学生野球協会(高校野球と大学野球)も社会人野球協会の決定に追随。
 学生野球憲章でプロ野球関係者からの指導を禁じ、プロとアマの長い断絶の時代が始まったのだ。

 こうした中、2000年のシドニー五輪から野球競技の魅力アップを狙ってプロ選手の出場が認められるようになる。日本は、その直前までプロとアマチュアが関係を断っていたが、この五輪を境に相互交流が始まり、アマチュア主体であれ何とかプロアマ合流チーム編成することができたのだ。

 参加各国がプロ選手中心で出場する中、日本が混成チームで臨んだ背景には、そんな日本野球界の断絶の歴史がからんでいた。この時の日本は4位に終わり、五輪ではじめてメダルを逃したが、プロとアマが歩み寄ったことは、国内的には大きな成果だった。

 あれから20年以上の月日が流れ、五輪もWBCもプレミア12もプロの選手たちが中心となって戦うことが続いている。

 この春にWBCで世界一になった侍ジャパンは解散し、監督は栗山英樹氏から井端弘和氏にバトンタッチされた。今月16日からは、井端監督の初陣となるアジア・チャンピオンシップ(東京ドーム)が始まる。
 参加チームは、韓国、台湾、オーストラリアと日本だ。

 本稿で日本野球界の歴史に言及してきたのは、東京五輪の金メダルやWBCの優勝など日本野球界にとって素晴らしい結果が続いているが、手放しに喜んでいられないという現実があるからだ。
 こうした好成績とは裏腹に野球人口が激減しているからだ。
 これはこのコラムでも何度も取り上げてきた。

 少子化の進行やスポーツの多様化など原因はさまざま考えられるが、最盛期で30万人いた中学の野球部員は、今やほぼ半分に減っている。加えて小学生の少年野球チームも、年々その数を減らしている。
 幸い2028年ロサンゼルス五輪で、再び「野球・ソフトボール」の採用が決まったが、日本野球界の将来は楽観できない。
 この問題はプロもアマもなく野球界が一丸となって取り組まなければならない
きわめて重要な課題だ。
 阪神とオリックスの日本シリーズで盛り上がった直後だからこそ、こうした警鐘を鳴らさなければと思っている。
 どうしたら子どもたちがもっと野球に興味を持ってくれるか?
 大きな宿題が野球界に課せられている。

青島 健太 Aoshima Kenta
昭和33年4月7日生/新潟県新潟市出身
慶応大学野球部→東芝野球部→ヤクルトスワローズ入団(昭和60年)
同年5月11日の阪神戦にてプロ野球史上20人目となる公式戦初打席初ホームランを放つ。
5年間のプロ野球生活引退後、オーストラリアで日本語教師を経験。帰国後スポーツをする喜びやスポーツの素晴らしさを伝えるべくスポーツライタ―の道を歩む。
オリンピックではリレハンメル、アトランタ、長野、シドニー、ソルトレークシティー、アテネで、サッカーW杯ではアメリカ、フランス、日韓共催大会でキャスターを務める。
現在はあらゆるメディアを通して、スポーツの醍醐味を伝えている。
2022年7月の参議院議員選挙で初当選。
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