HERO'S COME BACK~あのヒーローは今~

水野祐希#1
8年目にホームクロスプレーにより右肩を負傷し終わったプロ生活
「これしかできない」から始めた野球教室

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    ■東邦高から高卒でヤクルトへ 8年間マスクをかぶった捕手・水野祐希

     愛知・東邦高校から2005年の高校生ドラフト4位で東京ヤクルトスワローズに入団し、捕手として8年間プレーした水野祐希は、2013年に現役を引退した。現在は佐賀アジアドリームズのバッテリーコーチを務めながら、女子硬式野球チーム「九州ハニーズ」の運営サポート、福岡で営む野球教室「ふるかうんと」と、休みのない日々を送る。第1回は、引退を決めた右肩の負傷から、球団スタッフとして過ごした5年間、そして一度どん底を経ていまの活動にたどり着くまでの歩みを聞いた。

    ――現役時代を振り返ると、ご自身はどんな選手だったと思いますか。

     一応、名門と言われる東邦に入りましたけど、自分ではそんなに優れた選手じゃないと思っていました。ひょんなタイミングで名前を覚えてもらって、高校生日本代表にも選んでいただいて、本当にタイミングよく、運よくプロになれた。そんな気がしています。プロになった瞬間に「すごいところに来た」というゴール感を覚えてしまって、いま振り返ると、そこで満足していた自分もいた気がしますね。

    ――大学進学とプロ入りで迷われたそうですね。

     迷いました。でも高校生日本代表での経験が大きくて、川端慎吾(東京ヤクルトスワローズ)や平田良介(中日ドラゴンズ)、ひとつ年下の田中将大(読売ジャイアンツ)など代表の同級生や後輩と同じ環境で野球をしたい、と。初めてプロ志望の意識が芽生えた気がします。その年、東京ヤクルトスワローズさんがドラフトで指名してくれたものの、当初はレベル的に「入っていいんだろうか」とも思いました。ただ、一緒に活躍するというより、この子たちと長く野球をしたい、ここに長くいたいと思ったんです。結果を出すことよりプロのレベルについていくことに必死で、練習を真面目に地道に取り組んでましたね。良くも悪くも目立たず、なんとか八年間やれたのかな、という感覚です。

    ――もし当時のご自身のような高卒の選手がいたら、いま、どんな言葉をかけますか。

     「ここがゴールじゃないんだよ。ここからスタートなんだぞ」と。もし自分がマネージャーの立場だったら、そう言いたいですね。

    ■8年目にして訪れた最高の手応え、その矢先の5月

    ――引退となった2013年は、どんなシーズンでしたか。

     同級生が大学から入ってきたあたりから出番はほとんどなく、五、六年目からは覚悟もしていました。ただ、八年目の2013年は、むしろ一番調子が良かったんです。オフには鳥取のワールドウィングで初動負荷というトレーニングを三、四年続けていて、その年は春から手応えがあった。当時はコリジョンルールがまだない年で、シーズンが始まると捕手が次々と本塁のクロスプレーのケガで離脱していって。僕も調子が良くて、「八年目にしてようやくあるぞ」なんて言われていました。

    ――その矢先に。

     五月のジャイアンツ戦、本塁クロスプレーのタックルで衝撃を受けて、右肩が上がらなくなってしまったんです。肩が一度外れて戻り、関節内に水……血が溜まって、腕を体から離せない状態になった。一か月、保存治療をしたんですけど症状が治らず、八月に手術の許可が出て懸命にリハビリをしていたんですが、その年のオフに戦力外通告を受けました。しかしこれはある程度覚悟の上での手術でした。

    ――術後、別のチームでという道は考えなかったのですか。

     当時はもう、投げられるイメージがなかったんです。内視鏡の手術をしてみたら、腱板損傷など、それまで誤魔化していたものが全部見つかって。お医者さんには「アメフトの選手がなる怪我だね」なんて言われました。こんなに肩がボロボロだったのか、と手術して初めて分かった。不思議なもので、選手を辞めたら逆に投げたくなって、スタッフをやった翌年あたりから少しずつ投げられるようになって、いまはすこぶる肩の調子がいいんですけどね。

    ■副寮長、二軍マネージャー 「むしろスタッフのほうが責任を感じていた」

    ――引退後はヤクルトでスタッフを務められました。

     引退して一年は副寮長として、二軍全般の手伝いと裏方を学びなさい、と。その後にマネージャーを兼務しました。現役のときとはまったく違う責任の重さがありましたね。むしろスタッフのほうが責任感を感じていました。

    ――マネージャー時代に、印象に残っている選手は。

     一番最後の年に村上宗隆が入団してきました。いまで言うと高橋奎二、それから廣岡大志(現オリックス)あたりが頑張っていて、印象深いです。活躍する選手はオン・オフがはっきりしていて、遊ぶときは大胆に遊ぶんですけど、終われば「ウェイトルーム行っていいですか」と来る。村上も、「もう少し打っていいですか」と、遅くまで練習しているような印象がありましたね。

    ――寮で生活する選手たちには、どんなことを伝えていましたか。

     ルールや決まりごとを破るというのは、自分の行動にすべての責任を負う覚悟が必要だ、ということです。ルールの内なら球団も責任を持つことができる。でも破った先で起きること、たとえば門限破りなどは、自分で責任を取れと。ルールは厳しく見えても、あなたたちを守るものなんだ、ルールを破る先は自分で責任を取る覚悟がいる。でも、そんな覚悟は野球に向けろ。という話をしてきました。

    ――五年務めて、なぜ自分から辞める決断を。

     高校卒業から、恵まれた環境にいさせてもらったのは確かです。ただ、マネージャーをしていると外部の方と接する機会が増えて、野球以外の生きる道を考えるようになった。周りは「マネージャーなら安泰だ」と言われることもあったんですが、三十歳前後で、野球以外のいろんな世界を見てみたい、という思いがどんどん強くなったんです。

    ■消去法で始めた野球教室 「これしかできない」からの再出発

    ――退団後は、どんな道を歩まれたのですか。

     高校の先輩が福岡で営む女子ゴルフのマネジメント会社に入社させていただいたんですが、ちょうど同じ時期に結婚もして、転居や環境の変化が一気に重なってしまったのかなって今では思いますが、一番は「出来る」と思っていたことが「出来ない」なにをしたらいいか正直パニックでした。自意識過剰だったんでしょうね。自分で自分を責めて、周りの方には本当によくしていただいたのですが、半年ほどで辞めてしまいました。それでも関東に戻る気はなくて、福岡の住みやすさと、食べ物が本当に美味しくて、福岡という土地に数か月で自分自身も家族も魅了されて、ここで何とかできないか自分には何が出来るんだと悩んだんですが、野球教室は、正直に言うと「自分には野球しかないのか……」という消去法で始めたんです。

    ――最初は、何から手をつけたのでしょう。

     場所も、自分の教え方も手探りでした。マネージャーとプレーヤーはやってきましたが、教えるのは初めてだったので、不安もありました。
     福岡(早良区)で野球専用室内練習場(ボールハウス)で場所をお借りしながら「ふるかうんと」という野球スクールを開業しました。とりあえず始めても、お客さんは来ない。
     そんなときに同期入団の川端慎吾の妹、友紀さんが福岡に女子硬式野球チームの「九州ハニーズ」を立ち上げた。という話を聞いて、チームのオープニングゲームのスケジューリングをお手伝いさせていただいたところから、少しずつ繋がり、「球縁」をいただき生徒が集まってきました。一度、九州ハニーズは退団という形になったのですが、そんな矢先に佐賀アジアドリームズ(旧:佐賀インドネシアドリームズ)の球団社長、福原さんに声をかけていただき、バッテリーコーチとして就任することになりました。2026年からは野球スクールも継続しながら、佐賀アジアドリームズをコーチとして、九州ハニーズは運営スタッフとして活動させていただいています。
     本当に「球縁」というものに感謝しています。今は佐賀で練習の時は片道1時間半かけて福岡から通ってます(笑)

    ――プロアスリートのセカンドキャリアについては、どうお考えですか。

     「野球しかやってこなかった」と思い込んでしまいがちですが、本当はそこにこそ可能性が詰まっていると思うんです。中学生も教室に来るときは「レギュラーになりたい」「プロになりたい」と言う。でも、プロ野球選手としての仕事とは何か。いくら百本ホームランを打っても、見に行きたいという人がゼロならお金にならない。極端な話、逆に打たなくても「あの選手になりたい」と思われればお金になる。野球をやりたいだけなら草野球でもできる。職業にしたいなら、プロの仕事とは何かを考える。息子が魚好きなので例えるなら、釣った魚をさばいて提供してお金を取った時点で、それはもうプロなんですよね。何がプロかというところまで、最初はわからないのが当たり前。わからないを紐解いていく。選択肢を狭める考えでなく、選択肢を広げる考えでやってほしい、と思っています。

    (第2回に続く)

    水野祐希(みずの・ゆうき)

    愛知・東邦高校では捕手として2005年に主将を務め、第77回選抜高校野球大会でチームのベスト8進出に貢献。同年秋の高校生ドラフトで東京ヤクルトスワローズから4位指名を受けて入団し、2006年から2013年まで捕手としてプレーした。現役引退後は2014年から二軍マネージャー・副寮長を務め、2018年に退団。2021年、福岡で室内練習場を拠点とした野球教室「ふるかうんと」を開設し、翌2022年には女子硬式野球チーム「九州ハニーズ」のバッテリーコーチに就任。2024年からは佐賀アジアドリームズ(旧・佐賀インドネシアドリームズ)のバッテリーコーチを務める。福岡在住。

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