【令和の断面】vol.202「ノムさんのルーツを訪ねて」

令和の断面

 京都から山陰本線や京丹後鉄道を乗り継いで3時間余り。
 町村合併でかつての峰山町は、今、京都府の北端に位置する京丹後市となっている。
 「峰山」この名前を聞いて誰を連想するか?
 プロ野球ファンなら、簡単な問題だ。
 そう、あの野村克也さんの出身校が「峰山高校」だ。
 ユニフォームにローマ字で書くと「MINEKO」。
 「相手から『みね子って誰だ』といつもやじられていましたよ」
 と、野村さんが高校時代を懐かしんで話していたことを思い出す。

 市議会議員選挙の応援で向かった京丹後市だったが、もうひとつの目的は、アミティー丹後という公共施設の一角に設けられた「野村克也ベースボールギャラリー」を訪ねることだった。

 地元の物産を販売するフロアーの横に常設された野村さんのギャラリー。
 夥しい数のトロフィーや写真が、時系列に展示されている。
 若かりし頃の野村さんは、笑顔にあふれ、人懐っこい表情をしている。
 あの「ぼやきのノムさん」のイメージはまだない。

 これも生前に聞いた話だが、本当は高校を出たら、「歌手か俳優になりたかった」と言っていた。
 「スターになったら稼げるから」と笑っていた。

 しかし、スターになったのは「野球の道」だった。

 「もし契約してくれないなら、帰りに南海電車に飛び込みます」

 これがテスト入団の時だったか、それとも2年目の契約の時だったか?はっきり覚えていないのだが、いずれにしても若き日の野村選手は、これほどの覚悟で野球をやっていたのだ。
 もちろん野村さんが電車に飛び込むなんてことはなかったと思う。ただ、こんなことまで言っても、どうしても野球がやりたかったのだ。その強い気持ちと野球に賭ける思いが、プロ野球で27年間プレーし、その後も監督として活躍し続けた原動力だったのだろう。

 電卓よりも前。
 そろばんの時代からデータを収集し研究していた野村さん。
 セオリーを大事にしながらも改革の勇気を持った人。
 野村さんが標榜したID野球は、今のプロ野球の基本になっている。

 ギャラリーに展示されている写真で印象に残るのは、現役時代の野村さんが当時の王貞治さんや長嶋茂雄さんと仲良く肩を組んで談笑していることだ。
 みんな同じ時代を彩ったスターたち。
 野村さんは、その中で負けない輝きを放っている。
 監督になってから放ち続けた「巨人や王さん長嶋さんに対する毒舌」の匂いは微塵もしない。これも自らをプロデュースする野村さん流の演出だったのだろう。

 「青島、いまごろ気が付いたのか?」と、笑っている野村さんの写真が語り掛けてくるような気がした。

 稀代のキャッチャーは、駆け引きに長けていたのだ。

青島 健太 Aoshima Kenta
昭和33年4月7日生/新潟県新潟市出身
慶応大学野球部→東芝野球部→ヤクルトスワローズ入団(昭和60年)
同年5月11日の阪神戦にてプロ野球史上20人目となる公式戦初打席初ホームランを放つ。
5年間のプロ野球生活引退後、オーストラリアで日本語教師を経験。帰国後スポーツをする喜びやスポーツの素晴らしさを伝えるべくスポーツライタ―の道を歩む。
オリンピックではリレハンメル、アトランタ、長野、シドニー、ソルトレークシティー、アテネで、サッカーW杯ではアメリカ、フランス、日韓共催大会でキャスターを務める。
現在はあらゆるメディアを通して、スポーツの醍醐味を伝えている。
2022年7月の参議院議員選挙で初当選。
バックナンバーはこちら >>

関連記事